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2007.02.25

おばあさんになった女の子は

20060624_44001_1 いつの日にも、女の子はいつまでも女の子であり続ける。たとえ、おばあさんになろうとも、それは変わらぬこと。追憶に耽るときはいつだって、どこでだって、女の子に戻れるのだ。恋い焦がれる思いは、色褪せることを知らずに、どうしたって乙女心をくすぐるものだし、取り戻したい何かは、心の奥を長く深く疼かせるもの。石井睦美・文、宇野亜喜良・絵による『おばあさんになった女の子は』(講談社)には、そんな思いを改めて感じさせる物語が描かれている。現実世界と物語とが交錯する物語の展開は、とてつもなく幻想的で、読み手を夢心地に誘う。そして、いつかは老いゆくわたしたちを、いつまでも女の子のままでいさせてくれる。

 はるかは1冊の本を読み終えた。すっかり年老いておばあさんになってしまった女の子が、その思い出をたどる物語を。はるかは物語に満足できずに、次のページをめくってみるのだけれど、物語はもうおしまい。もう一度最後のページをめくって、そのおばあさんの満ち足りた顔を見ていたところ、本の中からおばあさんの声がしてきて…という、なんともファンタジックな展開になってゆく。思い出をめぐらせて、満ち足りていたように思えたおばあさんが、実はその結末や境遇に飽き飽きしていたゆえの呼びかけ。つまりは、それが長い間放って置かれた本ゆえだということ。本好きとしては、なんだかとても複雑な気持ちになってくる理由である。

 何はともあれ、「おばあさん」に「女の子」という名称が与えられていることは、とても興味深いところである。わたしたちは日常の中で、おばあさんが若かった頃というものを、あまりにも意識しないで生活している。当然のことながら、祖母のことを「おばあちゃん」と呼び、母親のことを「お母さん」と呼ぶ。かつては「女の子」であったことなど、考えることなどほとんどないに等しい。けれど、確かに祖母にも母親にも「女の子」と呼ばれた時があり、かつては確かに女の子然としていたのである。それがいつのまにか大人と呼ばれる身分になり、子の親となり、「女の子」と呼ばれないようになるのだから、時間の流れというのは、なんとも不思議なものである。

 さて、冒頭で“時を経てもなお、女の子はいつまでも女の子であり続ける”と書いたのだけれど、実際問題において、それはかなり困難なことなのかもしれない。というのも、時間の流れというものは実に残酷なものだからである。いくら内面的に女の子であり続けることができたとしても、外面的には一生「女の子」ではいさせてくれないものだからだ。この物語においても、おばあさんになってしまった女の子は、女の子であった頃に戻りたがっている。追憶に耽ることに満ち足りていた長い間には、様々な心の葛藤があり、新たなる願望が生まれたように。そういう場面を目の当たりにすると、女の子であることは、ある意味特権であると思えてくるのだった。

4061323393おばあさんになった女の子は
石井 睦美 宇野 亜喜良
講談社 2006-11-18

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