犬婿入り
時として言葉は、勝手に一人歩きをする。時として言葉は、何の役にも立たない。強い意志を持っているかと思いきや、全く無力な存在でもあるのだ。表裏一体とでも言うべきか。世界を相手にしてみれば、言語はツールとして1つしかない場合、その威力は極めて弱いものだと言えるだろう。そんな時に頼りになるのは、もしかしたら視覚的なコミュニケーションだけかもしれない。いわゆる物事の表層の部分。人の表情、である。多和田葉子著『犬婿入り』(講談社文庫)に収録されている「ペルソナ」は、まさにその言語を切り離した世界を描き、独特の雰囲気を感じさせる作品である。相反するように表題作「犬婿入り」では、言語が強固に異物を弾き出すイメージが始終付きまとう。
はじめに収録されている「ペルソナ」。ドイツを舞台に描かれる、東アジアの人々に対する偏見は、なかなか根深いものがある。多種多様な人々と言語が用いられる環境における個人というものは、なんとちっぽけなものだろうか。物語の中で、姉弟で留学している道子は、言語を切り離した表層の部分でひどく混乱し、戸惑うことになる。中国人も韓国人もベトナム人も日本人も、ドイツ人から見れば区別がつかない。わたしたち日本人が、外人イコールアメリカ人的発想をするのと同様に。日本人であるはずの道子は、そんな中、同じ日本人に“ベトナム人みたい”と言われる。元恋人には“東アジアの人間には表情がない”とも言われる。また、日本人イコールトヨタ的発想をされること、しばしば。
そんな状況の中でいくらドイツ語や英語が話せても、人は人の表層しか見ないし、通用しない。つまりは、佇まいや醸し出す雰囲気。要は、顔がモノを言うわけである。物語の中では、セオンリョンという人物が誤解されてしまうことになるわけだが、彼もやはり人柄よりも表情が乏しいとされる東アジア人の顔で、陥れられてしまうのだ。わたし自身、人からよく“メンクイ”という言葉を放たれるが、決して美男子がタイプというわけではない。内面から溢れてくる雰囲気というもの。つまりは、その人と成りを表す“顔”というものが好きかどうかを重要視しているわけだ。別の角度から見れば、それは物事の表層しか見ていないことにもなるわけだが、持論を言えば、“顔”は人を物語るものである。
さて、表題作の「犬婿入り」。これはもう、言葉の力をひしひしと感じさせる物語だ。共同体というひとつのカテゴリーにおける、異物というものを徹底的に排除する傾向が鮮明に描かれている。日本で言うところの、古くを言えば部落。昔ながらの町内会や団地という組織は、まさにそういうものを代表する共同体だろう。そこに組み込まれている無意識のルールを逸脱するものは、疎まれる。物語では、奇妙な“犬婿入り”の話をして聞かせる、キタムラ塾の北村みつこという女性をめぐる数々の噂話を中心に描かれていて、物事の本質よりも言葉が人格化してゆくという、なんともユニークな作品となっているわけだが、よくよく考えてみると、その恐ろしさにぞっとするのであった。言葉は魔物だ、と思わずにはいられない。
![]() | 犬婿入り 多和田 葉子 講談社 1998-10 |
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コメント
こんにちは♪
お言葉に甘えて、前の記事を発掘させていただきました♪
これはなかなか手強い本でした。
「ペルソナ」
読み進むうちに、こんな暑いのに鳥肌たってきちゃいました。
なんか、記事を書きながら、言葉を探しても探しても
言葉が壊れていく感がぬぐえなかったです。
投稿: nadja | 2008.07.24 18:27
nadjaさん、コメント&TBありがとうございます!
昨年の記事など、古いうちに入りませんよー。
どんどん、今後もよろしくお願い致します♪
この作品、本当に手強いですよね。
わたしも読みながら苦悩したことを、今でもよく覚えております。
とりわけ「ペルソナ」については記事を書くとき、
言葉の力の虚しさみたいなものすら感じたようにも思うほど、
わたしがいくら語っても語っても、語り尽くせない何かがあるような気がしました。
投稿: ましろ(nadjaさんへ) | 2008.07.24 21:02