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2007.01.10

桃の花

20070109_009 懐かしい光景。懐かしい匂い。懐かしい感触。懐かしい声。五感を刺激するようなそれを、郷愁と呼ぶ人もいるだろう。或いは恋慕と。或いは、単なる乞いだと。或いは、もっと別な何かと。人によって異なるそれらの思いは、いつだってわたしたちを包み込む。ときには、呑み込もうとさえする。喜びとも悲しみとも区別がつかぬように。立松和平・文、山中桃子・画によるサンサンス絵本シリーズの『桃の花』(インデックス・コミュニケーションズ)は、そんな懐かしさを呼ぶ記憶をめぐる物語だ。脳出血で倒れた母の傍で主人公がめぐらせる記憶の数々は、匂い立つまでの桃の木ではじまり、桃の木で終わりを迎える。特に踏みしめる土の感触と、香しいまでの桃色が冴えている。

 記憶をめぐらせる。それは、自己陶酔的なことなのかもしれない。自分のフィルターだけを通したそれは、まさに自分の都合のいいパラレルワールドに違いないからである。記憶は、時が経つほどに塗り替えられてしまう。美しいものは、より美しく。悲しみは、より悲しく。そうやって作られた記憶は、ときに現実と夢との区別をなくしてしまう。けれど、この物語の中でめぐらされる記憶は、あくまでも冷静で現実味帯びている。自分の記憶の中にいることを、はっきりと自覚もしている。いや、言い聞かせていると言った方が適切かも知れない。物語のはじまりと結末を知れば、或る覚悟を持ってめぐらされた記憶ゆえだとはっきりと見えてくる。そして、見えてくるからこそ、その余韻は奥深い。

 記憶の断片をなぞるように、わたしは思考したことがあっただろうか。かつて。或いは最近…。思わずめぐらせてみた問いは、どうしてもあっという間に闇に包まれてしまう。懐かしさとはほど遠い数々の記憶は、わたしの目を覆う。わたしの思考を止めさせるのである。一瞬よぎる記憶の欠片は、わたしをひどく混乱させる。あの光は何?あの影は何?あの声はどこから?あの感触は何なの?どくんどくんと速まる鼓動を感じながら、わたしは大粒の涙を流す。理由なき涙。答えなき涙を。頬をつたうしずくは、わたしの汚れを流すのだろうか。それとも、さらに汚すのだろうか。記憶は涙を呼び、涙はいつのまにか記憶を呼びはじめる。不思議とやわらかに。穏やかに。かつ、静けさを持って。

 ちなみにこの作品は、父と娘のコラボレーション作品である。父が物語を紡ぎ、娘が画を描いているのだ。そういったことを知らずに読んだわたしだけれど、改めてその文章と画とを見てみると、ある種の感慨を覚える。なんとも不思議なる心地にも包まれてしまう。この感覚というものを、手にとって読んで、確かめてみて欲しい…という言葉で逃げたくなるほどに、ため息がこぼれる。もちろん、いい意味合いでのため息だ。記憶が重なり合う瞬間を見たような。誰かの記憶と結ばれたような。同じ時間を同じ思いで共有したような心地なのだ。その妙。その奇跡のようなものを、手元に持ってしまったわたしは、なんと贅沢な人間だろう、とさえ思うのだった。

4757304137桃の花
立松 和平
インデックスコミュニケーションズ 2006-11

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コメント

はじめまして。
ブログ村からやってきました。
好きな本に共通するものが多くて、
これからも読みに通わせていただきたいと思い、
ご挨拶させていただきます。
私も小川洋子さんや魚住陽子さんなどが好きです。
またうかがって、
記事を順番にじっくり読ませていただきますね。
丁寧なつくりのブログで、
これから読ませていただくのが楽しみです。
ではまた。

投稿: やまかわうみこ | 2007.01.12 17:21

やまかわうみこさん、はじめまして。
コメントありがとうございます!
魚住陽子さん、お好きなのですね。嬉しい限りです。
わたしもそちらのHPを拝見しまして、
とても興味を抱きましたので、また伺わせていただきます。
拙い独りよがりな文章ばかりなので、恥ずかしいですが、
よろしければ、読んでやってくださいませ。
今後もどうぞよろしくお願い致します!

投稿: ましろ(やまかわうみこさんへ) | 2007.01.12 17:57

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