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2007.01.19

香水 ある人殺しの物語

20070109_003_1 一見して煌びやかに思われていた世界が、その正体を明らかにするとき、不思議と安堵が立ち込める。そこにある醜悪なもの。そこにある虚しさ。そこにある微笑までもが、取るに足りないものになる瞬間を想像して。ここにいる自分自身と、その世界を埋めるのに充分なほどの材料を得た心地になるのだ。自己満足に過ぎないそんな行為は、物語との接点をどこかしら持って、わたしの前に立ちはだかる。夢見心地で読んだ、パトリック・ジェースキント著、池内紀訳『香水 ある人殺しの物語』(文春文庫)に描かれた、ひれ伏すまでの匂いたるものを知らないがゆえに。ずば抜けた嗅覚というものを持ち得ないがゆえに。そして、18世紀のフランスという国を知らないがゆえに。

 知らない。それは、物語に浸りきるのには、もってこいのすべである。フィクションとノンフィクションとを嗅ぎわけられないことは、その物語をまるごと受け入れる猶予をもたらす。そして、無条件に物語を信じ込ませる。語り手の導くままに、主観が移り変わるままに。天才にもなれれば、無知にもなれる。読む気力さえあれば、常に“なったつもり”でいられるのだ。その行方を遮るものは、現実世界だけである。周囲の騒音なるもの、刻一刻と時を刻む時間、昇り沈む日の光、邪険にも空腹を唱えるお腹といった生理的欲求なるものなど。それらは、“知らないわたし”を許そうとはせず、“知っているわたし”を目覚めさせようと躍起になってくる。物語に浸りきるのは、案外難しいのであった。

 だが、この物語は違う。“知っているわたし”を呼び起こされようが、何が起ころうが、わたしの心を掴んで離さなかった。生まれながらにしてずば抜けた嗅覚を持ち得ている、グルヌイユ。その異才ぶりにぐいぐいと引き込まれ、その世界に呑まれてゆくことになるのである。グルヌイユが求めたもの。それは、ただひとつの匂いだけだった。体臭を持たないがゆえなのか、その才能が突出し過ぎていたのか、唯一無二の香水だけが、この世界を楽園にするのだと信じて止まなかった。やがて、香水調合師としての技術を完全に習得する、グルヌイユ。彼はもう、目的のために手段を選ばない。迷うことなく自分の思い描いた香水を作るべくして、その匂いを我が物にするのである。

 物語は、ただの異才物語に終わらない。人間の心の奥底を掻きむしるように、その醜態を顕わにするのである。一見して煌びやかに見えたはずの、それ。香しいとばかり思っていたはずの、それ。正しいと思っていたはずの、それ。それらの輪郭は曖昧になり、何を信じて何を疑えばよいのかをわからなくさせる。その滑稽さは、これまでも今もなお、視覚に頼って嗅覚をほとんど使わずに生きる、わたしたちへの戒めのように思えてくる。匂いというものが呼吸という、生きる上において重要な部分からやってくること。それが、生きている限り逃れられないことを指すゆえに。研ぎ澄ますべきことを目の前にして、ただ呆然と物語に酔いしれるしかない。ただ、今ここに立ち込める匂いとともに安堵して。

4167661381香水―ある人殺しの物語
パトリック ジュースキント Patrick S¨uskind 池内 紀
文藝春秋 2003-06

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コメント

こんばんは。
私も「香水」大好きな小説です。
細部を忘れているので、これをきっかけに読み返そうかなー。
それにしても映画化されているのですね!
これはぜひ見なければ~。

投稿: やまかわうみこ | 2007.01.20 20:36

ましろさん、こんにちは。
1年位前に映画化の知らせを聞いて読みました。
周りの風景が香りで描かれているところは、知らず知らず想像力を刺激されました。
映画は…少し怖そうですが、やっぱり見てみたいです。

投稿: sayano | 2007.01.20 22:12

やまかわうみこさん、コメントありがとうございます!
読まれていたのですね。しかも、「大好き」!!!
各章ごとにオチもちゃんとあって、いいですよね。
長いのに厭きさせないのは、そのあたりがポイントでしょうか。
さすがだなぁという感じがしました。
わたしも映画、観なければ!です。

投稿: ましろ(やまかわうみこさんへ) | 2007.01.21 15:09

sayanoさん、コメント&TBありがとうございます!
早くからこの作品のことを知ってらしたのですね。さすがです★
わたしもすごく想像力を掻き立てられました。
映画化となると、やはり怖くなってしまうのでしょうか。
かなりはらはらドキドキしそうな予感がします。
なおかつ、気になる監督さんの作品なので、今からとても楽しみです。

投稿: ましろ(sayanoさんへ) | 2007.01.21 15:15

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