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2006.12.23

青いリボン

20050325_032 一般的とか、普通という概念ほど曖昧なものはなくて、それぞれが思うそれぞれの普通は、どれも著しく異なっている。例えば、家族。誰もが皆、ごく普通の家庭で育ったつもりでいるのだから、恐ろしい。或いは大して特別でもないのに、特別な家庭で育ったつもりでいる場合もあるから、問題はさらに困難なことになる。大島真寿美著『青いリボン』(理論社)を読むと、なんだか一般的だとか普通だとか、その言葉自体がもはやその意味をなくしている気がしてしまったのだった。誰もが普通で、なおかつ誰もが特別で。わたしの普通は、誰かにとっては特別で。誰かにとっての普通は、わたしにとっては特別で。だから余計にその概念は曖昧になる。わからなくなる。

 物語は、家庭内別居の狭間にいる依子が、友人である梢の家にお世話になることから、ゆっくりとのびやかに微妙な年頃を成長してゆく展開だ。両親共に働いている依子は、一人でいることに慣れすぎていた。母親は出張で上海へ。父親は転勤で福岡へ。実家は北海道。けれど、せっかく入った高校を転校する気にもなれないし、もうすぐ高校2年も終わるのだからと、賑やかな大家族の梢の家での生活をすることになるのだった。たったの四ヶ月ではあるものの、よその家族がどんなものか知らなかった依子にとって、それは貴重な時間であったことだろう。一緒にいても、遠く離れていても、家族は家族。それ以外の何ものでもないのだと、学びきづいたのだから。

 家族。思えば、その存在はなんとも不思議なものである。夫婦とはそもそも他人同士なわけで、そこに子どもが生まれることで親子という家族が出来上がる。それが繰り返されて、代々続いてゆくことになるわけだ。中には、血の繋がりはないものの、そんなことはおかまいなしに親密な親子という場合もある。血の繋がりなんぞ疎ましいほどに、険悪な場合も多々あることだろう。家族という形態にこだわらずに自由に生きている人たちもいるかもしれないし、そもそも家族なんていらないと思っている人もいるだろう。だが、やはり、家族はなんともかけがえのないもので、あたたかだ。そうわたしは、どこかで思っていたい気持ちが強くある。確かに。芯の部分に。

 そう思うのは、冬という季節のせいかもしれないが、帰る場所があるということほど、心強いものはないと思うからなのだ。複雑な例を除けば、実の父親というのも、実の母親というのも、たった一人しかいなくて、どんなにその絆を断ち切ろうとも、簡単には切れないものがしこりのようにいつまでも残るのもの。両親を結びつけた縁は、新たな命をこの世の中に生み、育て、やがてまた、その命が誰かと出会い、命を育む。理想のかたちはまさにそうである。けれど、今の世の中はそうまあるくおさまってはくれない。一般的であるとか、普通だとかいう概念はもう、キレイさっぱり忘れた方がいいのかも知れないとすら思えてならない。その一方で、変わらないで欲しい思いが疼くのだった。

4652077920青いリボン
大島 真寿美
理論社 2006-11

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