わが悲しき娼婦たちの思い出
人は再生する。いくつもの困難を乗り越えて。いくつもの死の淵に立たされて。それでも生を生として、あるがままに受け入れねばならない。与えられた時間の分だけ。その痛みと悲しみを抱えながらも、ときどきは笑い、ときどきは泣いて、思う存分苦しんで、そうやっていくつもの再生を繰り返し、生を全うする。いや、全うすべきもののような気がする。G・ガルシア=マルケス著、木村榮一訳『わが悲しき娼婦たちの思い出』(新潮社)を読みながら、わたしはそれを学んだ気がする。けれど、まだまだ未熟なわたしには、人間の生を熱く語れるほどの人間としての厚みも、経験も知識も何もかもが不足していることも、同時に学んだ。そう、まだ人生の折り返し地点にも、たどりついていないのだから。
物語は、九十歳の誕生日を迎える男性が主人公である。年齢にしては、健康極まりないこの男性。いまだ現役のライターでもある。彼は、誕生日にうら若い処女を自分の欲望のままにしようと決め、長年の知り合いである娼家の女主人に頼むのだった。欲望のままに狂おしいまでに…とは言いつつも、年齢が年齢なだけに、その願いは想像とは違う方向へと向かってしまう。けれど、主人公の男性は、勝手にデルガディーナと名付けた少女に対して、まるで初恋のような思いにかられてしまうのだった。その恋文を記事にしてしまうほどに。少女は眠ったまま。それをただ愛撫する男性がいる。ときには、歌を歌ってやり、本を朗読してやり、そうやって、一緒の時間を共に過ごす。それだけのことである。
少女は眠っていながらも、少しずつ男性への思いに目覚め、やがて幼い身体は大人の女性へと変化してゆく。少女は確かに生きているのだった。成長しているのだった。そして、いつ何時死を迎えるかわからない男性もまた、やはり確かに日々を生きていることに、変わりはないのだった。物語は、様々な事件や心の葛藤、そして男性が九十一歳の誕生日を迎えるまでを描く。滑稽で、ユーモラス。かつ、尊厳に満ち溢れ、悲しみにも満ちている。その微妙なバランスを保ちながら、読み手をあきさせずに一気に読ませる。もちろん、“娼婦たちの思い出”とあるのだから、ここまでに至るまでの経緯のようなものまでも描かれてはいるのだけれど、少女への焦がれる思いの濃さに圧倒されてしまう展開だ。
再生。主人公の男性は九十歳にして、新たなる人生をスタートさせたと言えるだろう。誕生日というもの。それは、ただ単純に一つ歳を重ねることではなく、これまでの自分との訣別の時とも言える気がするのだ。そして、また新たなる自分に再生する。そんなきっかけの時ではないか、と。もちろん、それは何も、誕生日にこだわる必要性はどこにもない。何がきっかけでもいい。何をきっかけにしてもいい。自分が新たなる自分へと変わりたい時、変わるべき時。それが、再生の時だと思うのだ。きっかけは、待っていてもやってこない。だからこそ、踏み出す。それがたとえ、遅かろうと早かろうと、いつであろうと関係ない。焦らずに自分なりのやり方で、その一歩を見つければいい。そう思う。
![]() | わが悲しき娼婦たちの思い出 ガブリエル・ガルシア=マルケス 木村 榮一 新潮社 2006-09-28 |
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コメント
はじめまして!
[mixi] から飛んできました。
読書家なのですね。
ガルシア=マルケスの「百年の孤独」は読んだけど、『わが悲しき娼婦たちの思い出』なんて本があることは知りませんでした。
読みたくさせる感想ですね。
川端康成の「眠れる美女」という小説をちょっと連想しました。
投稿 やいっち | 2006.12.25 01:34
やいっちさん、はじめまして。
コメントありがとうございます!
あの「百年の孤独」を読まれたのですか。すごいですね。
わたしは途中であの分厚さに負けてしまったクチです。
マルケスの作品はまだ2冊しか読んだことがありませんが、
これからまた挑戦してゆこうと思っております。
そう、これは川端作品から構想を得た作品なんですよ。
きっと気に入られるかと思います。
投稿 ましろ(やいっちさんへ) | 2006.12.26 17:08