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2006.12.07

不恰好な朝の馬

20050711_44044 一歩を踏み出すということ。どれほどの些細なことでもいい。そのほんの少しの歩みに、ひどく怯えるわたしを見つけてしまった。今がいいとは決して思わない。今居る場所が心地よいわけでもない。それなのにわたしは、繰り返しに過ぎない日常の中で、時間の流れに身を任せてのらりくらりと生きているような気がする。時は何も解決してくれないことなど、とうに学んだはずなのに…。井上荒野著『不恰好な朝の馬』(講談社)は、そんな憶病なわたしの一歩をほんのりと後押ししてくれるような作品だ。それは、登場人物たちがそれぞれに、自分なりのやり方で一歩を踏み出そうとしているからに他ならない。どんなやり方でもいい。そのすべを見つけるところからでも遅くはないのだと、教えてくれるのだ。

 物語は交じり合い、裏切り合う、運命の不思議を感じさせる連作小説集である。夫の浮気をもう許さないことに決めた妻。その夫と浮気相手との奇妙なる旅。教え子との儚き関係に溺れる男。そして、その妻の新たなる習慣と秘められた切なさ。また、決して戻らない人や日々をいつまでも待ち続ける人々がいる。忘れられない人々がいる。そんな樹形図のように繋がる線と線とを結ぶ物語が、丁寧に描かれているのだ。どうしたって消せない過去と今と、これからの未来と。そして、一度交わったが最後、その関係を帳消しにすることの難しさを、深く考えさせられもする。どこかで繋がる縁は、どこまでも長く伸びゆき、どこまでも深い根をはってゆくものなのだと今さらながら気づかされるのだ。

 中でもわたしは、「額縁の犬」と「スケッチ」が好きだった。どちらも女性目線で描かれているせいもあるけれども、わたしの踏み出せない一歩を確かに踏み出そうともがき足掻く姿が描かれているからである。そう、彼女たちは知っている。いくら手を伸ばしても、決して届かないものがあるということを。そして、どんなにもがき足掻いたところで、小さな一歩は小さな一歩に過ぎないということを。それでも、孤独の中に何かを見出し、自分なりの一歩を希求することを忘れてはいないのだ。だからこそ、ちゃんと地に足をつけて自分自身を保っていられる。いや、保とうと努めているのだ。それがわかるから、なんとも切なく、なんとも愛おしいと、わたしは感じてしまった。

 たぶんわたしには、そんな強さがどこか欠けているのだろう。彼女たちのようにどんな孤独や虚しさに襲われようとも、なくしてはいけないものをどこかに置き忘れているのだ。それは、強い意思かもしれないし、人と人との関係性についてのことかもしれないし、或いはもっと重要な人としての根本的なことなのかもしれない。年齢だとか、経験だとか、知識だとか、そういうものを超えた何かが、きっと欠けているのだ。そう思わせるほどに彼女たちの強い意思と一歩は、潔い。潔いからこそ、美しい。タイトルにある不恰好さなんて、微塵も感じさせないのだ。たとえそれが、どんなやり方でも自分自身で見つけたすべであるからこそ、その姿は否応なしに美しいと思う。思わずにはいられないのだった。

4062134942不恰好な朝の馬
井上 荒野
講談社 2006-10-31

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