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2006.12.14

私自身の見えない徴

20061115_018 毛布にくるまりながら様々な想いに耽り、わたしはわたしにくるまれてゆくのを感じていた。自分自身にくるまれること。即ち、たったひとりきりの世界に閉じこもって。そうして、わたしは本当の自分を取り戻すために、しばしじっとまるくなる。まるくなったわたしは、まるで母胎の中にでもいるかのように、心地よいあたたかさにくるまれているのだ。長い沈黙と安堵と共に。エイミー・ベンダー著、管啓次郎訳『私自身の見えない徴』(角川書店)という作品は、まさにそんな想いに耽るときにしっくりと馴染む。十歳の誕生日に父親が原因不明の病気になったことから、「止めること」をはじめたモナの物語である。ただし、止めることができなかったのは、2つだけ。木をノックすること。そして、数学。

 この作品の物語設定は滑稽でファンタジーなのだけれども、紡がれる言葉たちは切実なあまりに悲しくさえ思える。その孤独さと、そのリアルさとで。二十歳になったモナは、ある小学校で算数を教えることになるのだけれど、そこでの彼女の存在は、子どもたちに様々な影響を与えてゆく。何しろ彼女は、自分の誕生日に自分への最高の贈り物として、斧を買うような女の子なのであるから。もちろん、何かの武器にするわけでもないし、オブジェとして鑑賞するわけでもない。ただ、止められなかった2つのことの1つである、数学に囚われた彼女にとっては、斧は数字の7なのだった。いや、7以外の何ものでもなかったのだったのだろう。それが彼女の運命を変え、悲劇を起こすとも知らずに…。

 物語は、淡々とけれど切実に二十歳の女の子の日常を紡いでゆく。家族を心配し、家族との距離感に悩み、恋のようなものに浮かれてみては失望する。そして、子どもたちに翻弄されながらも、工夫に工夫を凝らして先生らしく振る舞ってみたりもする。また、恩師であり金物屋のジョーンズさんとの奇妙ながら密接な繋がり、シンパシーのようなものを思うとき、心がほっこりと何かにくるまれている心地になるのだった。途中、主人公のモナは数学的な問題としての人生について考える。すべてが数学の論理上にあるのならば、悩まずに済むのに…と。冒頭の寓話。最後の寓話。それは、まさにその論点を突いていて、なんとも複雑な想いにかられる。わたしたちが、数学的には生きられないからこそ。

 二十歳という節目の歳。それが主人公のモナに与えた出来事の数々は、あまりにも濃密なものばかりである。モナの思考が読み手に切実に届くのは、彼女の生き方が人間的であることに他ならず、その止められなかった二つの事柄に縛られる自分を、解放しようともがき足掻く姿をも思わせるからである。自分自身の殻に閉じこもってばかりはいられない歳。両親との距離を置かなければならない歳。つまりは、自立の歳。彼女はそれに戸惑いながらも、自分のなんとも不器用なやり方で、そっと人々を見守る。その視線の先にあるものに引き寄せられるように、わたしは彼女の物語を毛布にくるまりながら、そっとめくってゆくことしかできない。そして、そのもどかしさは、そのまま自分自身に戻ってくる。

4047915157私自身の見えない徴
エイミー ベンダー Aimee Bender 管 啓次郎
角川書店 2006-03

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