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2006.12.16

モデラート・カンタービレ

20061216_008 わたしの中で何かが砕けてゆくのを感じるとき、欲望と狂気はよく似ていると思う。例えば欲望は、募れば募るほどに殺意を孕むから。例えば狂気は、侵食されてゆくほどに自らの手で己を壊してゆくから。あっけなくも粉々に。散り散りになったかけらは、もう二度と元には戻らない。悔いることさえも、許されないかもしれない。その醜態に甘んじて、生きよと云われるかもしれない。M・デュラス著、田中倫郎訳『モデラート・カンタービレ』(河出文庫)を読みながら、わたしはそんな思考をめぐらせた。物語に呑まれそうになった瞬間からずっと、この思考は続いている。あまりにも執念深く。大きな靄が、わたしを追いやろうとしているかのように。

 物語は、自分の属している社会からの脱出をひそやかに願うアンヌを中心に進んでゆく。アンヌは、幼い息子のピアノのレッスンを口実に、遠くまで出かけることを日課としており、そこである日偶然にも殺人事件の現場に遭遇するのだった。そして、その現場である、酒場で知り合った男性ショーヴァンと共に事件をなぞってゆくことになる。アンヌの中にある、漠然とした脱出願望が、やがて期待への意識に繋がることを知らずに。そして、少なくとも今後の彼女の人生が変化してゆくことも知らずに。いや、或いは変化を求めていたからこそ踏み出したのか。踏み出せずにいる自分を押しこめるのには、もう限界がきていたのだろうか。いずれにしても殺人事件の存在は、彼女にとって大きなものだったのだ。

 モデラート・カンタービレ。普通の速さで歌うように。タイトルのように、確かにこの物語は普通の速さで展開してゆく。時間をはしょることなしに、淡々と紡がれている。特にアンヌとショーヴァンとの会話は、ごくごく普通のものなのだ。ときどき二つの話題が混入していたりもするし、決して逢い引きなどといういやらしさがない。ありふれた近所の噂話のようでもある。けれど、それを二人だけの秘め事として扱っているからこそ、アンヌの心もショーヴァンの心も揺さぶられてしまっているのだろう。共通項といえば、どちらの人間も、今いる社会からの脱出。そして、殺人事件があったことを知っていること。ただ、それだけのはずなのに。ただ、それだけのことが命取りになる。

 殺人事件のことを、アンヌとショーヴァンはなぞってゆくわけだけれども、実は二人は何も知らない。だから、二人の想像で物語を作りだし、男女にどんな関係があったのか、どんな暮らしをしていたのか、そういう細々としたことを設定してゆくことになる。最終的には、その事件の起きた日の心境に至るまでに達する。そして、そこまでたどりついた二人は、もう酒場で話をするだけの関係ではいられなくなっている。もしかしたら、この酒場で起きた殺人事件もこうしたことから始まっているのかもしれないのに。でも、心配はいらない。二人はもうちゃんと自分の行くべき場所を知っているから。その先にあるどんなことにおいても、怖がることなど何もないと。二人ならばなおさら、だと。

4309460135モデラート・カンタービレ
マルグリット・デュラス
河出書房新社 1985-05

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