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2006.12.04

愛執

20050513_44011 執拗なまでの、愛に取り憑かれること。ときとして、それは人を狂わす。けれど、小説や映画の世界ならば、なんとも甘美なものに映るのはなぜだろう。崇高なまでに思われるのはなぜだろう。そんな歪んだ思いこそが正しく思えて、滑稽なほどに愛おしさが増す。見事なまでに引き込まれた作品が、アメリー・ノトン著、傳田温訳『愛執』(中央公論新社)であった。醜悪な男が絶世の美女に惚れ込むというこの物語は、切ない恋物語に終わらずに、魅惑的な毒を持って、屁理屈にも似た独特の理論の数々を含みながら、同時にユーモアをも描き出している。そして、読み手を厭きさせないスピードをも備えて、何とも言えない余韻を残して物語を締めくくるのだ。

 愛執。つまりは、愛情に囚われて思い切れないこと。物語の主人公であるエピファーヌは、まさに邦訳のタイトル通りの男である。自分の外見の醜悪さを軽蔑しつつも、至高の美しさを求め続け、その矛盾の中で苦しんでいる。彼はその醜悪さを武器に、内面の純粋性をどこまでも追い求めて、絶世の美女であるエテルの心を自分へと向かせようとするのだ。しかもこれは、これまで社会から虐げられてきたエピファーヌにとっての初恋。遅咲きの想いは、どこまでも留まることを知らないのであった。そんな中、エテルに恋人ができ、親友をこえて兄妹のようにまで馴染んだ二人の関係は、少しずつ変化してゆくのである。エピファーヌの予期していたものと反して。

 物語は、エピファーヌの独白で展開してゆく。そのため、登場人物の行動範囲が広くとも、中心人物の輪郭以外はあまりにもぼやけて見える。エテルへの想いが、ただ切々と訴えかけるように語られてゆくだけなのだが、面白い。ただし、“愛執”なるタイトル通りに、彼女にはなかなか言い出せない。彼女の最も近い存在で居続けつつも、自分の入り込む隙をいつでも狙っているわけである。ある時はエテルの恋人を褒め称え、ある時は欠点をいくつも挙げて見せる。そして、自分の精神の純粋さを見せつけたりもしつつ。でも、そこはやはり醜悪な外見が邪魔をして、良い方にも悪い方にも転んでしまうわけだ。これはやはり、哀しくも滑稽な皮肉な愛の物語なのだった。

 確かにエピファーヌの精神は、歪んでいる。彼なりのむちゃくちゃな理論も、知的な部分を見せつつも、やはりどこか歪んでいる。愛ゆえの歪みなのか。歪みあってこその愛なのか。それともすべてにおいて、荒唐無稽のものなのか。そこが、とても興味深いところである。わたしがこの物語に心惹かれてしまうのは、きっとどこかしら自分の中に醜悪なものを持ち得ているからで、それをどうにかこうにか見せまいと隠しているからではないかと思う。だって、世の中はあまりにも上手く醜悪なものを嫌うものだから。そして、わたし自身も崇高な美まではいかなくとも、それなりの美しさをどこかで求めているからであろうと。ほんの少しの、いつまでも純粋で無垢なままの自分というものを。

4120036928愛執
アメリー ノトン Am´elie Nothomb 傳田 温
中央公論新社 2005-12


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