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2006.12.03

われら猫の子

20050509_44045 心の奥底でもどこでもいい。ぽっかり空いた空洞を、埋めてくれるものがあるのなら。虚無感と孤独を少しでも和らげてくれるものがあるのなら。タスケテと、声なき声をあげることがないように。ほんのりと。一瞬でも。満たされる時があったらいい。星野智幸著『われら猫の子』(講談社)を読みながら、わたしはそんな思いを抱いた。心の中の空白や闇、違和感。それらを感じさせる十一もの短編は、どれも自分自身と向き合わされる作品ばかりである。それは、家族であったり、性的なことであったり、人と人との関係性であったり。そこに横たわる違和感というものに対して、ひどく虚しさを感じるわたしがいる。孤独をずくずくと疼かせる何かが、確かにあったのだった。

 表題作「われら猫の子」。これは、猫に救われる話とでも言うべきか。小道具としての猫の存在が、なんとも効いている物語である。ありふれた男女の生活を描いているように思わせつつ、そこに深く根ざすのは、心の中の葛藤だ。本当の意味での、自分の意思。それがどこからくるものなのか、不思議なくらいストレートに悩み出す二人がいる。思えば意思などというものは、必ず何かしらの影響を受けているものである。本当の本当に、自分自身だけで決められることなど、探してみればどこにもないのかもしれないのだ。何らかのきっかけで。何らかを介して。何らかの瞬間に。はたと気づいて呆然となる。わたしとは、何によって動かされているのか。わたしの意思そのものの根源はどこか、と。

 続いては、「ててなし子クラブ」。ここでは、心の中の空白について考えさせられることになる。父親の亡くなった仲間たちだけで、擬似的な父親話をするというクラブを作り、そのクラブの破綻までが描かれる物語である。彼らが繋がっているのは、父親の不在という点だけである。自分自身のことを語るわけでもなく、ただあたかも父親が存在しているかのように、彼らは父親についての話だけをするのだ。やがて解散し、恋人同士になった二人だけの関係になるわけだが、自分自身について語ってこなかった二人には、父親の不在以外の結びつきがない。それが、なんだか無性に哀しくて切なくて、同時に愛おしい。歪んだ別れというものが、いつまでもじわっと残る印象的な作品だった。

 最後に好きだった作品「砂の老人」を。細かく砂粒で書かれている分厚い本の存在をめぐって、不死の老人と出会う物語である。その名も、ホルヘ・ルイス・ボルヘス。あのボルヘスである。ボルヘス三世と一緒に、彼の故郷に向かうことになったホシノ。そして聞かされる。本には、“始めもなければ終わりもない”と。そして、“世界には一冊の無限の本しかない”と。その言葉の重みと虚しさに、著者同様わたしも愕然となる。砂のごとくにこぼれ落ちる何か。そう、自分が自分である必然性も何もないことに気づいて。いくら文字を書き連ねたとて、届かないものがあることに気づいて。書くという作業の虚しさと孤独を思って。けれども、それが人間たるもの。そう思うのだった。

4062136953われら猫の子
星野 智幸
講談社 2006-11-10

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