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2006.12.15

文字移植

20061108_010 時間の経過を感じながら、夢の中にいるかのような不本意さを目の前に突きつけられていた。それでも夢の中からは自らの力ではどうにも抜け出せないのと同じように、いつまでもわたしの腕を、或いは脚を掴んで離さない何かを感じてもいた。そんな不思議な読書体験が、多和田葉子著『文字移植』(河出文庫)では得ることができる。実験的な要素を多く含むこの作品は、執拗なまでに<わたし>という存在を主張しながらも、その存在感を曖昧にしてゆく。そこには、文字の連なりというものが、何も役に立たないのではないかとすら感じさせる蠢きがあるのだ。それゆえの、快感。幻想。それらに酔いしれるようにして、わたしは一心に読み耽らずにはいられなかった。

 物語は、現代版の聖ゲオルク伝説の翻訳をするために火山島を訪れた<わたし>について描かれている。<わたし>は翻訳の仕事に努めようとするものの、訳された文字はただの断片にすぎず、途方もなく散らばって見えるだけである。やがて文字の群れは姿を変えて<わたし>を悩ませ、不安を掻き立ててゆく。その不安は、始終読み手にも伝わってくるほどにリアルなもので、それでいてどこか夢の中に引きずり込まれたかのように薄い靄に包まれている。それが、この物語の魅力であり、難解なところでもある。けれど、断片的に紡がれた文字の連なりを思うとき、これから無限に広がるだろう新たな物語を想像して、歓喜せずにはいられないわたしがいることに気づくのだった。

 そう、わたしは翻訳ということをそもそも何もわかってはいない。学生時代に英文を訳したことくらいしかない上に、そもそも語学という分野には疎かった。今でも、もちろん疎い。それでも、翻訳小説を読む際は、翻訳者が誰であるのかをマメに確認してみたり、その経歴をじりじりと読んでみたりすることは忘れない。なんという浅ましさだろう。そして、思っていた。所詮、翻訳家は翻訳家。決して作家ではないのだわ…と。この物語の中にももちろん、そういう葛藤のような部分が多く描かれている。翻訳なんて、やめてしまいなさいな。翻訳して何をしたいというの。翻訳家なんてさっさとやめて、いっそ作家になりなさいな、と。けれど、<わたし>には確固たる意思があるのだった。

 この物語が面白いのは、そういう<わたし>の意思の強さとは矛盾して、時間というものが常に流れていることである。食料雑貨店へ向かうときも、河へ向かうときも、郵便局へとむかうときも、誰かに話しかけられるときも、翻訳しているときも…。物語に、或いは活字というものに、一定の流れを感じることは、稀な気がする。確かに時間が流れ、確かに<わたし>という人が存在し、確かに物語の舞台となっている火山島が実在している。そんなふうに思ったのだ。それは、一気に読み終えたからというよりは、物語に寄り添うようにして読んだ結果なのかもしれない。そして、物語の<わたし>が聖ゲオルクに寄り添ったのに近い状態だったのかもしれないとも、思うのだった。

430940586X文字移植
多和田 葉子
河出書房新社 1999-07

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コメント

翻訳に興味のある私は惹かれる本です。

確かに普通、翻訳者は作者に比べて、あまり注目される立場ではありませんが、村上春樹さんとか有名な人は「この人が翻訳しました!」と売りにしていますよね。訳者で読もうかやめようか決めることもあります。

全然違う言葉へと翻訳するのは簡単じゃないけど、いい言葉が見つかるとジグソーパズルのピースがぴったりはまったときのような快感があります。
ウズウズ…(>_<)この本読んで、また翻訳の勉強を始めようかな。

投稿: さやの | 2006.12.17 09:49

さやのさん、コメントありがとうございます
翻訳のことをブログに書いてらっしゃいましたものね!
この著者は、ロシア語でも執筆活動されている方なので、
独特の視線があるのかもしれないです。

うーん。翻訳モノ。
翻訳次第で文体がかわってしまいますからね…なかなか難しいところです。
わたしは村上氏が苦手なのですが、氏の翻訳はかなり好きだったりします。
翻訳モノの七不思議の1つです。
あぁ、わたしも勉強せねば…

投稿: ましろ(さやのさんへ) | 2006.12.17 21:16

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