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2006.11.20

真鶴

20060723_9999001 浮かんでは沈み、沈んでは浮かぶ。そうやっていつまでも繰り返して、濃くも淡くもたゆたっていたい心地になっていた。その不思議なる浮遊感に遊びながら、時を過ごすことにいかなる危険が孕んでいようとも、かまわないくらいに。いつまでも、わたしはたゆたっていたかったのに。川上弘美著『真鶴』(文藝春秋)には、そんな感覚が始終漂う。近くにいながらもとても遠くて、遠くにいながらもこんなにも近い。触れているというのに、本当には触れていない。いや、触れさせない。簡単には触れられない。もどかしい思いは渦のように込み上げてゆく。そして、ふっとした瞬間に消えてゆく。脆く。淡く。あまりにも儚く散り散りになるのだ。

 夫の失踪から五年。そこで迷い始めている主人公の京(けい)。老いた母親と微妙な年頃の娘・百(もも)と暮らす女ばかりの生活に馴染みつつも、夫をどこかで探し続けている。いつだって、思い出してしまう。正確に言えば、恋人といるときによく思い出してしまっているのかもしれない。夫の簡素な日記にあった“真鶴”という地名。それを頼りに、引き寄せられるかのように、主人公はそこへ何度も足を運ぶ。ついてくるものを感じながら。曖昧な記憶を少しずつ手繰り寄せながら。夢とうつつの狭間に迷い込みながら。いろんなことを知ってゆく。いろんなものを手放してゆく。“生きたい”と“逝きたい”の違いを、どちらに向かって行くべきかを、ゆっくりと学ぶのだった。

 ついてくるもの。その不確かさが、この物語の中では重要な気がする。霊的なものとも、幻覚的なものともつかないその存在。ここで言うところのついてくるものは、なんとも不思議な雰囲気を醸し出しているのだった。どちらかと言えば、世の中を知り尽くした、知り尽くさずにはいられなかった、そんな類のものである。主人公の京の場合は、女だった。それも、夫のことを知っているらしい女。それでも、なかなか夫のことを教えようとはしてくれない女なのだった。ふっと現れては、ふいに消える。気まぐれで、強引で、どこか憎めなくて。きっと、可愛い女だったであろう、ついてくる女。それに違いないのだ。わたしの中で、そのイメージは広がってゆく。主人公を差し置いてまでも。

 先に挙げた“生きたい”と“逝きたい”の違い。音は同じなのに、大きく違うこの言葉。白黒はっきりでグレーゾーンの少ないわたしには、この両の狭間で揺れる心がいつでもうずうずとなっている。ときにはきゅっと痛みを帯びて、わたしを困らせるのだ。だからだろうか。この物語の中で、“生きたい”と“逝きたい”で揺れる主人公の心情がとてもじんと胸を疼かせたのだった。いや、じりじりと、だったかもしれない。それくらいに響いたのであった。それでも濃くも淡い物語のせいか、浮遊感はいつでも消えない。一緒にたゆたっていられる。たゆたっていたいと思わせるものが、確かにあるのだと思う。だからわたしは、癖になって何度も読み返すことになる。きっと。

4163248609真鶴
川上 弘美
文藝春秋 2006-10

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コメント

うああああ、またやっちゃいました。ごめんなさい。ダブりどころか、トリプり、クアトりですね。大変失礼いたしました。お許しくださいませ。平身低頭。

投稿: 黒犬 | 2006.12.09 14:56

黒犬さん、コメント&TBありがとうございます。
どうか気になさらずに…!
また懲りずにどうぞー。

投稿: ましろ(黒犬さんへ) | 2006.12.09 22:26

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 初出「文學界」2005年2月号〜2006年5月号。  13年前に失踪した夫の日... [続きを読む]

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