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2006.11.19

すぐり

20061119_018 幸福というものが不幸あってこそのものだと知ったとき、世界の不公平を見出した気がした。幸福な人々。彼らが幸福であるのは、不幸な人々あってのものである。世の中には裕福な人々がいて、貧しい人々がいる。極端な話をすれば、貧しい人々がその不幸を放棄してしまったら、たちまち誰のものの裕福もなくなるわけだ。下があるからこその上。つまり、上下関係ある構造によって作られた社会は、弱者を支えとして成り立っているというわけだ。けれど、弱者に属するだろう者がじっと耐え抜いて生きるには、この世界はあまりにも困難ではないのか。アントン・P. チェーホフ作、イリーナ・ザトゥロフスカヤ絵、児島宏子訳による『すぐり』(未知谷)には、そんなことを思わせる物語が紡がれている。

 「すぐり」。この短編は、説話形式で展開される。獣医の男と中学教師の男二人が、長いこと歩き続けているうちに、雨宿りをする必要にかられる。そして、広い土地の地主である男の家にたどりつき、そこである話を獣医の男が始めるのである。それは、弟の話だった。弟は地道に乞食のような倹約生活を続けて、いつしか地主屋敷を手に入れ、そこにすぐりの木を植えたというのだ。その様子を確かめに行ったところ、弟の姿はすっかり変わり果てていた。それも、いい意味合いで。その威厳に怯んだわけではないものの、獣医の男の中で何かが変化するのを、自ら感じ取ってしまったのだった。それもすぐりを愛おしそうに食べる、幸福に満ちた弟を目の前にして。

 獣医の男が感じ取ったこと。内面の変化。それは、幸福というものを目の前にした途端に、浮かび上がる。自分の夢を実現し、満足げに微笑む人々がいる。圧倒的な強さで。その存在感で。ただし、それは、少数の不幸な人々あってこそのものだと気づくのである。“幸せな人々が自分を快く感じることができるのも、不幸せな人々が自分の重荷をただ黙ったまま背負っているからです”と。そういう秩序あってこその、世の中だと知りつつも、不本意に思うのは、なぜだろう。自分の身をわきまえているからなのか。自分のことを知り尽くしているからなのか。自分のことをないがしろにしているからなのか。それとも、自分自身が幸福である側に属しているからなのだろうか。はたまた、老いからか。

 不公平。それを言い出したら、きりがない。それでもわたしは自分自身に問うてみた。わたしは幸福か、不幸かと。けれど、それはあまりにも曖昧な位置ゆえに、はっきりとはわからないのだった。どちらも持ち合わせているわたしがいて、どちらにも属するわたしがいて、わたしというものを形作っている。そう思うのだった。要は、一般的なのか。標準的なのか。それとも、どちらにも当てはまらない、単なる脱落者であるだけなのかもしれないが。少しずつ起きている、わたしの中の変化というもの。内面の変化。そのひとつひとつのひだを確かめるようにして、そっと思考をめぐらせてみるのも悪くない。特に今日みたいな、しとしとと雨の降る日には。

4896421604すぐり
アントン・P. チェーホフ 児島 宏子
未知谷 2006-10

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コメント

今日は、こちらもしとしと雨でした。そしてちょうど幸せについて考えてみたりしていました。誰かの犠牲のうえに成り立つ幸せなんてありえないんじゃないかな。だって普通は犠牲になっている人のことを考えてしまうよねぇ。でもきっとわたしだって気づかないところで多くの人を犠牲にしているんだわ。安い給料でこきつかわれる中国人がいるから激安商品が買えたりするんだろうし。周りの人を幸せにして自分も幸せになれる、そんな生き方ができたらいいのにな。

投稿: ちもたん | 2006.11.19 23:29

ちもたんさん、コメントありがとうございます!
今日も雨でしたね。しとしと。今もまだ、続いてます。
本来ならば、“幸せ”という言葉自体、使われ方が間違っているのかも知れない。
わたしには一番近くて、遠い言葉の1つが“幸せ”だったりするのだけれど、
なんだかチェーホフさんにしてやられた気持ちになっております。
物語としてはつまらないのだけれども、考えさせられます。切々と。

投稿: ましろ(ちもたんさんへ) | 2006.11.20 23:31

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