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2006.11.21

午後四時の男

20061121_021 自分を知ること。それの困難さを痛感させられる。あまりにもぢんぢんと。見知らぬ自分をあちこちで見つけるたびに、考えさせられる。例えば、理想の自分というものがあって。あるがままの自分というものがあって。そこには、もちろん、醜い自分というものがあって。普段は見えない自分の姿が顕わになる瞬間というものがある。いや、ただ見えない振りをしているだけなのかもしれない。そうして、自分という迷宮にはまり込んでしまうのだった。アメリー・ノートン著、柴田都志子訳『午後四時の男』(文藝春秋)は、まさにそんな迷宮の書と言っていい。かたちばかりの自分に違和感を覚えながら、読み進めるほどに、わたしは自分の正体を恐れるようになるのだから。

 物語は、定年を境に誰からも干渉されない生活を望む、元高校教師のエミールである。男は、小学生時代からの同級生であるジュリエットと、もう結婚して四十三年になる。老夫婦は、森の中の一軒家に彼らの望む「家」を見つけ、そこに移り住むことになる。だが、彼らの暮らしの平穏は、そう長くは続かなかった。隣人の男が、午後四時きっかりに「家」を訪れることになるからだ。それも、きっかり二時間だけ。特別何かを話すわけでもなく、いや、ええ、だけを繰り返すのみの男。いつのまにか強引なまでに家の扉を叩き、コーヒーを要求し、我がもののように決まった椅子に腰掛ける。“午後四時の男”そう名づけた男の振る舞いに、やがて翻弄されてゆく老夫婦。

 老夫婦の“午後四時の男”からの翻弄され方は、ありふれたものから、次第に深刻な不安へと変わってゆく。なにも扉を開けなければそれまでなのにもかかわらず、男に怯えてしまうのは、彼らの持つもともとの人柄からくるものだった。そのはずなのに、様々な試みののちに、彼らの心持ちは妙な方向へゆくのだった。そこからが、この物語のおもしろいところ。特に変化が目覚ましいのは、主人公のエミール。彼の哲学論議は、見事なまでの一人芝居を演じてみせる。彼は、これまで少しばかり恥じてきた自分のささやかな経歴を吹き飛ばすごとく、演説するのである。長年連れ添った妻でさえも驚くほど、饒舌に。そして、その饒舌ぶりに対して何の答えも持たない“午後四時の男”がいる。

 男に向けられた敵意なるもの。それが殺意に達するには、あまりにも早かった気がする。けれど、一日たったの二時間といえども、老夫婦にとってはあまりにも長い時間であったのだった。それに加えて、“午後四時の男”の内情を知ってしまったからには、それを親切にも、手助けせずにはいられない気持ちになってしまうのだった。だからこその、敵意。そして、殺意。そこに浮かぶアイロニー。読み手としたら、老夫婦のじりじりとどこまでも耐える気持ちが、少しは理解できるかも知れない。そして、読み始めてしまったが最後、その結末に至るまでの過程を、しっかりと見届けたくなってしまうのだ。わたしたちはきっと、試されている。本当の自分に、どこまで冷静でいられるかを。

4163176209午後四時の男
アメリー ノートン Am´elie Nothomb 柴田 都志子
文藝春秋 1998-04

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