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2006.10.08

ロスチャイルドのバイオリン

20061003_8844034 夜。わたしは思考する。今日という1日を思って。放った言葉を省みて。ただ振り返る。ただ後悔する。ただため息をつく。その繰り返しだ。どうして明日を思わないのか。なぜ未来を思わないのか。それはわからない。なぜか、毎晩省みてしまうのだ。そして、夢見る。もしもあのときこうしていたら…と。だから、アントン・P・チェーホフ作、イリーナ・ザトゥロフスカヤ絵、児島宏子訳『ロスチャイルドのバイオリン』(未知谷)に、はっとせずにはいられなかった。この物語の主人公であるヤーコフまでとはいかずとも、人生におけるマイナスの部分について考えることが、かなり多いことに気づいたからだ。もっと明日を。もっと未来を。そんなことを思わせる物語だからである。

 深い哀しみのバイオリンの音色を奏でることができる、ヤーコフ。彼がその才能を発揮できなかったことを嘆いてしまうのは、きっとわたしだけではないはずだ。彼は偏見と人生における損失。それを考え出したらきりがない性格の持ち主だった。小さな町で棺桶屋をやりつつ、オーケストラのメンバーとして、ときどき呼ばれてバイオリンを演奏する。そんな暮らしをしていた。妻のことなど思いやることもなく、毎日のように、莫大な損失を計算しては嘆き、特別、ロスチャイルドに対してユダヤ人だというだけで、偏見をぶつけて冷たくあたっていたのだった。そんなヤーコフが妻の死をきっかけにして、変化する様子が物語られてゆく。わたしはそれに、心乱されつつ食い入るように読む。読まずにはいられなくなる。そして、新たな思考をめぐらせる。

 人は皆、誰しも少なからず自分のことに夢中だ。例えば、自分の目の前にあることに。そのことに、目を奪われてしまいがちである。それは、たまった書類かもしれないし、科されたことかもしれない。日々の雑事は途方もなく続く。仕方のないことである。けれど、わたしたちは、そこで何かを見失ってはいないだろうか。大切な何か。見失った何かを。ヤーコフのめぐらせた思考は、そういうことを思わせてくれるのだ。“人は、生きることから損失と喪失を得て、死から得るのは利益ばかり。…でもやはり、くやしくて辛い。なんのためにこの世に、こんな妙な決まりがあるのだろうか”この言葉を、死を間近にして思ったヤーコフ。人は変われる。変わろうと思えば、変われるのである。そう信じてみたくなる、重い言葉である。

 この『ロスチャイルドのバイオリン』は、絵本という形態をしている。けれど、大人のための絵本である。チェーホフの文章と共に添えられた絵は、淡くも愛しさを込めて物語を描いた、なんとも味わい深いものである。どうやら、この絵本が企画され依頼をする以前に、既に自ら絵画化して作品としていたらしい。絵を見れば物語が思い出され、物語を読めば絵が思い出される。それほどまでに、この作品は見事なコラボレーションとなって、今わたしの手元にあるのだ。とりわけ、表紙にある寄り添う二人の胸に抱えられたバイオリンが、印象的である。これは、ヤーコフとロスチャイルドだろうか。それとも、長年連れ添った亡き妻の姿だろうか。二人に射す光は闇に満ちているけれど、胸元のバイオリンだけは明るい。哀愁以上のものを感じる絵である。

4896421213ロスチャイルドのバイオリン
アントン P. チェーホフ 児島 宏子
未知谷 2005-02

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コメント

お久しぶりです!この本、装丁が素敵ですね。
素敵な装丁だというだけで、読みたくなる私です!
無くして始めて気づくことが、なんと多いことか。是非、手にとってみたい一冊です。

投稿: こもも | 2006.10.13 20:17

こももさん、コメントありがとうございます!
お久しぶり!また来てくださって嬉しいです。
装丁。本当に素敵ですよ。このシリーズ、かなりはまっています。
チェーホフがこんな読みやすいカタチで読めることが、すごく幸せに思います。

投稿: ましろ(こももさんへ) | 2006.10.15 07:57

はじめまして。
小川洋子著「ミーナの行進」から辿り着き、感性豊かな素晴らしい書評の数々に、しばし目も心も奪われてしまいました。
この「ロスチャイルドのバイオリン」は私も大好きで、以前に家業のHPで拙い書評を書きました。
ここで見つけて嬉しくなり思わずコメント致しました。
これからは、時々お邪魔させて下さいね。
私は、残念ながら読書ブログではなく、一応お料理中心ブログ(HPの姉妹版ブログ・何でもありですが)をやっています。

投稿: マリリン | 2006.10.19 10:43

マリリンさん、はじめまして。
コメント&嬉しい言葉をありがとうございます!
まだまだチェーホフは2冊目で、未熟な書評にもかかわらず、
たどってくださったなんて!!!
只今、ウキウキとした気持ちでいっぱいです。
わたしもマリリンさんのところへ、ぜひお邪魔させてください。
HPの方も楽しみに拝見させていただきますね。
今後もどうぞよろしくお願い致します!

投稿: ましろ(マリリンさんへ) | 2006.10.19 12:32

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