« 少し変わった子あります | トップページ | ロストターン »

2006.10.21

大学生

20061017_44016 自分を誰かと重ね合わせるということ。そこで味わう奇妙なる追体験というもの。そして、生まれる新たなる気づき。アントン・P・チェーホフ作、イリーナ・ザトゥロフスカヤ絵、児島宏子訳『大学生』(未知谷)には、そういうことが描かれているように思う。激寒のロシアにて、焚き火に暖をとる人々。そこに加わった大学生は、かつて同じようにして手をかざしたであろうペトロ(パウロ)の苦悩に思いを馳せる。イエスを裏切ったユダ。また、同じように暖をとりながら、イエスとは無関係だと言い放ったペトロ。ペトロと同じような心境に追い込まれる錯覚とも言うべき出来事ののち、大学生はさまざまに思考をめぐらせて、現在と過去との繋がりを思うのである。

 わたしは信仰を持たない。だから、この大学生の苦悩というものを本当の意味で知ることはできないだろう。けれど、わかることもある。現在と過去との繋がりを思うとき、わたしもときどきはっとすることがあるからだ。例えば、誰かも見たであろう、どこかの風景を見て。例えば、友人がかつて読んだであろう、書物を手にして。そうやって思いを馳せて、わたしと他者とを繋ぎ合わせてみるのである。そっと。ときどきは、半ば強引に。そうしているうちに、わたしと誰かの区別はつかなくなり、瞬時にしてわたしが誰なのか、わからなくなる。わたしとは、一体…その正体を探すべく、わたしはまた、誰かと同じものに手を伸ばす。その繰り返しが続いているように思う。

 もしかしたら、人生というものは、そうやって永遠に繰り返されているのかもしれない。特別なことというのは、思えば極めて少ないのだから。同じものを見て、同じものを読んで、それぞれが異なって受け取るように思いつつも、その思考は誰かと確実に似ている。その存在を知らないだけで、わたしたちは皆、自分だけで満足しているのかもしれないのである。そんなふうに思考をめぐらせていると、こうして言葉を紡いでいるわたしの思考というものも、どこかの誰かと同じものであるに違いない。何しろわたしは、ごくありふれた存在であるに違いないし、特別な要素は多少なりともあれど、それはたいして格別とは言い難い。むしろ、様々なことに悩みつつも、平凡な日常を生きる人間の一人ではないだろうか。

 この『大学生』。以前取り上げたチェーホフ作品同様に、大人のための絵本というかたちをしている。ロシア語の響きを大切に扱い、30頁以上にもわたる美しくも奔放な絵画と共に読む、チェーホフコレクションのうちの1冊である。戯曲で有名なチェーホフの短編を、こうしたかたちで読めることは、この上なく幸せなことである。中でも、この作品においては、黒と赤とのバランスが絶妙で、その赤たるや、なんとも言えない悲しみと苦しみを感じさせるものなのである。淡々と語られる物語の裏に潜む、激しい感情をまさに見事に表現していると言ってよいだろう。特に、両の手で顔を覆った絵が、わたしの中にこびりついて離れない。忘れられない1冊となりそうである。

4896421434大学生
アントン P. チェーホフ 児島 宏子
未知谷 2005-10

by G-Tools

もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…
にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログ、見つかる。

|

« 少し変わった子あります | トップページ | ロストターン »

63 海外作家の本(ロシア)」カテゴリの記事

69 アート・絵本」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

「本当の私は何?」と他人からの影響を排除していった結果、たまねぎの皮むきと一緒で何も残らないという寂しい思いをするかもしれないけれど、それでも僕はたまねぎは「たまねぎ」として存在するのだと信じたいと思う。

ところで、ちょっと話題は逸れるけど、こんなこと言ってる学者がいます。

「もし人権保障の根拠が、通説の主張するように、結局は社会全体の利益に還元されてしまうのであれば、公共の福祉とは独立に、人権とは何かを考える意味はほとんどない。自らの人生の価値が社会公共の利益と完全に融合し、同一化している例外的な人を除いて、多くの人にとって、人生の意味は、各自がそれぞれの人生を自ら構想し、選択し、それを自ら生きることによってはじめて与えられる。

「切り札」としての権利
「切り札」として働く権利であるためには、いかなる個人であっても、もしその人が自律的に生きようとするのであれば、多数者の意思に抗してでも保障して欲しいと思うであろうような、そうした権利でなければならない。そのような権利の核心にあるのは、個人の人格の根源的な平等性であろう。他人の権利や利益を侵害しているからという「結果」に着目した理由ではなく、自分の選択した生き方や考え方が根本的に謝っているからおいう理由に基づいて否定され、干渉されるとき、そうした権利が侵害されているといいうる。この種の制約は、その人を他の個人と同等の、自分の選択に基づいて自分の人生を理性的に構想し、行動しうる人間として見なしていないことを意味する。

また、いま述べたような意味での個人の根源的な平等性は、憲法の定める民主的政治過程の根本にあるはずの原理である。あらゆる個人を自律的かつ理性的にその人生を選択できる存在だとする前提があってこそ、理性的な討議と民主的決定を通じて、社会全体の公益を発見しようとする考え方が生まれる。多数決による決定だからという理由で、この個人の自律的な決定権を否定するならば、民主政治の前提自体が掘り崩されることになる。」

投稿: るる | 2006.10.21 17:40

るるさん、コメントありがとうございます!
「たまねぎ」の話。面白く拝見しました。

でも正直、学者さんのお話はよくわからなかった…すまぬ。
だって、どんどん人権問題の方向へと進んでいっちゃうんだもの。
しかも、わたしにとってはかなり痛いお話で。
考えたくないよぅ。…って甘いヤツで申し訳ないです。
でも、ホント、今はツライ立場なのよね。。。

投稿: ましろ(るるさんへ) | 2006.10.22 18:56

ごめんなさいね。
すこ~しだけ、問題が掠ってるかと思ったのだけど、やっぱりアプローチが根本的に違ってたね。

投稿: るる | 2006.10.23 17:56

るるさん、再びありがとうございます!
いえいえ。勉強になりましたです。
また、いらしてくださいまし。

投稿: ましろ(るるさんへ) | 2006.10.23 19:44

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/55029/12361965

この記事へのトラックバック一覧です: 大学生:

« 少し変わった子あります | トップページ | ロストターン »