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2006.09.24

死を待つ家

20060905_012 人種も宗教も何もかもを超えて、はっと自分を省みさせられる本がある。松本栄一写真・文による『死を待つ家』(メディアファクトリー)は、そういう本の1冊だと言っていいと思う。人としての、死の在り方。それを考えさせる写真集は数あれども、ここに写された死を待つ人々の表情は、あまりにも穏やかである。インドの聖地であるバナーラス。“死を待つ家”と呼ばれるこの場所は、誰もが訪れるわけではないし、インドでもその存在を知らない人もいるという。それでも、悪しき輪廻から逃れるために、来世への希望をこの場所に求めて人々はやって来る。死を“終わり”として考えるのではなく、誕生への一歩。その過程であるとして。つまりは、死が“はじまり”であるものとして、人々はやって来るのだ。

 静けさと。安堵。そして、希望。それらを死に感じることは、わたしにはとうていできそうにない。これまで、できた試しがないからだ。けれど、“死を待つ家”の人々は、なんの躊躇いもなく、苦しむ様子も見せずに、ただ死を待っている。神の域を超えるほどの神聖な表情をして。時には、生ける神々のような、やわらかな表情すら見せて。そこに深く根づくのは、きっと宗教的な部分が多くを占めているのだろう。彼らの想いは次のようなものだ。「今世と来世と繰り返して、人々の魂が互いに混じり、霊魂は新たな肉体を得て生まれ変わる」。そして、「肉体的には他人でも霊魂のレベルでは“同胞”だと認識する」彼ら。だから皆、こんなわたしですらも、彼らは同胞だと言うに違いない。その意識に、なんとも感嘆させられる。人間としての器。それを思わせる。

 写真と文章を書いた松本氏もやはり、“死を待つ家”にて、複雑な心境になったことを語っている。死のイメージとはかけ離れた建物。音。それでも響く確かな静寂。“僕は余計ものだった”という言葉に、そのすべてが集約されているように感じられた。けれど、その疎外感はいつのまにか自然と薄れてゆく。彼らは心から松本氏を受け入れた。そして、松本氏は彼らとの出会いに対して、臆せずに接する言葉を放てるようになった。だからこそ、松本氏の写真は語っている。身に染みるほどに強く。ただ穏やかに横たわる、人々の姿。それを見守る人々。まさに今、死を迎えている人々。そして、死を送る人々。どの人々にも、満ちているのは悲しみ以上のものばかりだ。だから、はっとする。ただ泣きじゃくった、わたしのような姿はどこにもない。

 死。それに対するイメージやカタチは、どんなものでもいい。それを選ぶ権利は、きっと誰にでもあるはずだろうから。ある1つの死のイメージ。ある1つの死のカタチ。それが、この1冊であると、わたしは思う。けれど、“死”という1つの捉え方として、悲しみ以外のものを見出すには、どこか思想的な考えが必要であるような気がした。わたしは宗教を持たない。だからこそ、あらゆるものの中から学べる。だからこそ、あらゆるものに染まりやすい。それでも、大切なモノというのは、きっといつまでも残るだろうと考えている。本当に大切なモノ。それは、わたしの中にいつまでも深く奥底にある。それを信じるのも自由であるはずだから、と。

4889918590死を待つ家
松本 栄一
メディアファクトリー 1999-06

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コメント

インド人の死生観、興味深いですね。
背後にある思想はヒンズー教に根ざしたものかは分かりませんが、仏教的な思想とも似ているように感じます。まぁ何教であるかの分類は学者に任せましょう。

ところで手塚治虫のブッダを読まれたことありますか?。「今世と来世と繰り返して、人々の魂が互いに混じり、霊魂は新たな肉体を得て生まれ変わる。そして、肉体的には他人でも霊魂のレベルでは“同胞”だと認識する」このイメージが視覚化されて、す~っと入ってく感じがします。

投稿: るる | 2006.09.27 20:52

るるさん、コメントありがとうございます!
インド人の死生観は、ほんと興味深いですよね。
ただ、どこに根ざしたものなのかはわからないんです…
ただ“バナーラスの象徴”という記載はあったのだけれど。
でも、この写真集を見ると、死が怖いものでなくなるのです。
不思議なくらいに。

手塚治虫のブッダは未読です。教えてくださってありがとう。
漫画、ほとんど読まないもので。探してみます!

投稿: ましろ(るるさんへ) | 2006.09.27 21:13

ずっと昔ですが、バラナシに二週間ほど滞在していたことがあります。バラナシで死ぬというのは、宗教的にとても貴いことですので、あらゆる人が「死ににくる」わけですが、それこそ死を待つ人の家の終末を迎える人、くるだけ来て行き倒れて亡くなり、市のトラックで遺体を回収される人(そういう人でもガートでちゃんと焼かれます)いろいろいます。最終的にみんな河に還るというというところである種の平等が実現されているわけですが、それ以前のプロセスを見るに付けいろいろ考えさせられます(くべられる薪の量とか)。遠藤周作の「深い河」にもマニカルニカガートとか周辺の描写があります。なかなか示唆に富んだ一冊です。

投稿: なぐね。 | 2006.09.28 01:40

なぐねさん、コメントありがとうございます!
インドに滞在されていたことがあるんですね。すごいです。
“河に還る”という光景も、この「死を待つ家」にもありました。
そこでは、焼かずにそのまま流していましたが…
なにぶん、説明のない写真集だったので、わたし自身の知識のなさを痛感しました。
解説もほとんどなかったもので、想像するしかなかった部分が多々。
遠藤周作の「深い河」。再読せねば…!!!
いろいろ教えてくださって、ありがとうございました。

投稿: ましろ(なぐね。さんへ) | 2006.09.28 06:27

死がはじまり・・・
そんな事考えた事もなかった。

手塚治虫のブッダ
自分も読んだよ
小説とかあんまり読まないから
漫画で理解しようとして(笑

投稿: ひろ | 2006.10.11 22:00

ひろさん、コメントありがとうございます!
そう“死がはじまり”って、不思議。
わたしも考えたことなかったです。

ブッダ、読まないとナ。
ありがとでした!

投稿: ましろ(ひろさんへ) | 2006.10.11 22:15

書き込み失礼します。

正直、ドキドキしながら読ませていただきました。「死」は「始まり」なのですね。
あまりにも深すぎる話で、コメントのしようがありません。
カルカッタの死を待つ家、もしくはバラナシに行こうかと思っています。

投稿: しげる | 2007.10.29 23:00

しげるさん、コメントありがとうございます。
死ははじまり…というのは、とても奥深いですよね。
わたしでもいつかは、たどりつける境地なのでしょうか。
カルカッタやバラナシに行かれた際には、ぜひ感想など聞かせてください。
今後もどうぞよろしくお願い致します。

投稿: ましろ(しげるさんへ) | 2007.10.30 05:37

はじめまして!

この本を書いた松本のパートナーのみみといいます。
(「みみ」というのはミクシ上のハンドルです。
http://mixi.jp/show_profile.pl?id=256221)

松本の著作を検索していて、このブログを拝見しました。
わたしは「死を待つ家」はとてもよい本だと思うのですが、なかなか陽の目をあびてこなかった本です。でも、すばらしいんだけど。。。と思っていたところ、ましろさんのこの書評を拝見し、感動してメッセージを差し上げています。

こんなにきちんと読んでいただきありがとうございます。本人もとても喜んでいます。

どうもありがとうございました。

投稿: みみ | 2008.06.20 23:21

みみさん、はじめまして。
コメントありがとうございます!
まさかパートナーの方からコメントがいただけるとは、
思ってもみませんでした。とても嬉しく思います。

わたしはとても知識に乏しくて、
この「死を待つ家」を半分も理解できなかったように思っています。
それでもこの本の素晴らしさが少しでも伝えられているなら、
こんなにも嬉しいことはありません。
こちらこそ、どうもありがとうございました!

投稿: ましろ(みみさんへ) | 2008.06.21 07:30

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