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2006.08.19

昨日

20060808_009 夢と現実と嘘。その3つが連なり絡まり合い境界を失うとき、物語は生まれる。アゴタ・クリストフ著、堀茂樹訳『昨日』(ハヤカワepi文庫)を読みながら、わたしはそんなことを真っ先に思った。亡命者である主人公の生き方は、まさにその3つで成り立っていたからである。何らかの意味があるはずの人生。それすらも、彼には何の意味も持ち得ない。繰り返される単調な日々は、人の心を次第に蝕み追いつめる。労働するために生きているのか。或いは、労働のおかげで生きているのか。ここでの情けないほどの薄給は、労働者の孤独を深めるばかりだ。その中で彼が見出したもの、それはリーヌという想像上の女性である。彼女と出会える日を夢見て、生きる。それが唯一の救い。彼の最後の希望だったのだ。

 物語は、アゴタ・クリストフという作家の苦悩を思わせる。著者自身が亡命体験をしているゆえに。小さな村の娼婦だった母の子として生まれ、憐れみの視線を向けられて育った主人公。ある出来事を契機に名前を偽り、戦争孤児を装うことで、彼は1人で生きてゆく道を選ぶ。後に工場労働者として。周囲には、彼と似た境遇の戦争孤児や亡命者たちが大勢いる。彼らの中には、母国にいる家族への仕送りのために…と僅かな希望を持つ者もいるが、大抵の者には何の希望も夢もない。1日を生きるに最低限の給料。そのどこに、未来があるだろうか。当然のごとく、自ら命を絶つ者も多い。そういう点では、主人公の生き方というのは、利口の部類に入るに違いない。例え、悲しくとも。惨めであろうとも。

 想像上の女性、リーヌ。彼はわかっている。誰もリーヌにはなり得ないことを。それでも、自分が生まれてきたのはリーヌに出会うため。彼女が生まれてきたのは自分に出会うため。彼女はわたしの妻、わたしの愛、わたしの命。そう信じているのだ。けれど、彼には恋人がいる。リーヌがやってくるまでのつなぎとしての。或いは、リーヌになり得る可能性を見出そうとして、なのか。また、彼は書く。頭の中で。そして、いざ書こうとすると、すべては嘘になる。それは、言葉のせいだ。つまりは母語ではないゆえである。物語の中にたびたび挿入される物語。それは、まさに著者自身の心のように息苦しい。抑圧されて、描写の少ない簡潔な言葉たち。それらがなんとも痛く染みるのは、書くという行為が決して、何らかのはけ口ではないことを証明するに充分だ。

 この物語の後半で主人公は、自分の人生を要約して簡潔に表現する。それが、あまりにもわたしには苦しかった。生きるということ。その虚しさを、見事に言い当てていたからだ。どんな言葉で紡がれていたかは敢えてここでは書かないが、思えばわたしの人生もすんなり要約できてしまうことを知ってしまった。むしろ、“人生というものに意味を見出そうとすること自体が愚考にすぎないのではないのか”とすら、思ってしまったのだ。もちろん、人生というものには、悲しみや苦しさだけじゃなく、幸せや喜びがある。楽しくてたまらない時間だって、確かにあるのだ。けれど、ふと我に返ったとき、それは一瞬にして淡く脆く崩れて、ただの虚しさに変わる。わたしはきっと、その瞬間に怯えている。だから、なかなか前へ進めないのだろう。わかっている。けれど、思い描いた理想は、なかなか諦めきれないのだ。

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4151200355昨日
アゴタ クリストフ Agota Kristof 堀 茂樹
早川書房 2006-05

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コメント

彼女の3部作を語るには、わたしには恥ずかしい位、そして語れないくらいの力を持って喰い込んできた。

それと比べると『昨日』は何となく肩透かしをくらってしまったのが事実。
彼女の自伝に近い感じだと思うけど、この人はそれを根っこにして物語を書いた方が上手いんじゃないかなぁ、と思っちゃった。
でも全部読んだけどw
でもあんまり残ってないの。。
文盲もあんまりだったなぁ、わたしには。
すごい厚い自伝にしてくれたら面白かったかもしれないのに!wとか勝手に思ったりしちゃって。

新刊が今月出たよね!
もう読んだ?
わたしはまだなの。
明日買いに走るの。(今日は走れないの。。)
『どちらでもいい』。
楽しみにしてる本。

投稿: ナヲ | 2006.09.12 15:27

ナヲナヲ、コメントありがとう~!
うむ。この作品とあの3部作とは、比べてはいけないのだ。
きっと、著者自身が一番ソレに苦悩しているはずだから。
長かった彼女の書けない時期を思えば、
この作品はこの作品として解釈すべきだと思う。
と、いうのがわたしのポリシーだったりするけれどもね。
もしかしたら、あの3部作をリアルタイムで、
しかも初版のハードカバーで読んでいるから、
そう思えるだけの時間がわたしにはあったのかもしれない。

新刊はまだ未読なりー。
確か短編集なのだよね。
読みたいけれど、近くに売ってなかったり…。

ゆっくり歩いて買いにゆこう!
わたしもね、走りたくても走れない…今です。

投稿: ましろ(ナヲさんへ) | 2006.09.12 17:12

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