« 猫の本 藤田嗣治画文集 | トップページ | 口ひげを剃る男 »

2006.07.18

わたし いる

20060712_019 遥か昔の、幼き頃の記憶のかけら。断片的にある、その小さなひとつひとつの想いを繋ぐように読み手を導く、佐野洋子著『わたし いる』(講談社文庫)。子どもの視点で描かれる7つもの物語は、どれも愛おしくてどこか懐かしくて。きゅうんと切ない気持ちにさせる。そして、大人になるということ。それが、純真無垢でいられなくなった、ということではないことを思い知るのだ。わたしたちはそもそも、純真無垢なんかじゃなかったのだと。無垢であることを装って、残酷な想いを抱くのは、むしろ子どもの方。それに対して目を背けているのは、大人の方だろう。そんなことを思わずにはいられない。わたしだって、そんな狡い子どもであったに違いないのだから。

 7つの物語から、特に心を寄せた物語について書く。まずは「じーじーかたん」。学校からの帰り道を描いたものだ。主人公の少女は、同じ方向へ帰るの友だちがいないから、ひとりきりでのらりくらりと行くのである。その行動は、純真無垢でありながら、残酷さを秘めている。なおかつ、深い喪失もそこには横たわる。同時に、ぞくっとする怖さも。道草は物語の宝庫。わたし自身の帰り道もそうだった。ひとりきりでこわごわ彷徨う朽ち果てた廃屋、ゴルフボールとビービー弾拾い、木イチゴと湧き水探し。理想的な死に場所まで見つけるような、そんな子どもだったのだ。それでもちっとも孤独ではなかった。辺り一面すべてが、わたしの興味の対象であったから。

 そして、続いては「あな」。ここで描かれているのは、ある種の衝動だ。繊細で壊れそうなものがあったら、思わず触ってみたくなる。僅かなほころびを見つけたら、もっとそのほころびを押し広げてみたくなる。まだ乾ききっていないかさぶたを、剥がしてみたくなる。ぐっすりと眠りの中にいる愛猫を、ついいじくりたくなる。そういう類の衝動に近いものがある。衝動のまま動く人差し指は、やはり純真無垢ではない。悪戯に留まらない、残酷なる凶器と化した指だ。衝動の根をさぐれば、じっと対象を見つめる目があると気づく。じりじりと見つめる目。それは、見つめても見つめても足りないくらいの執着というものである。見つめるほどに魅せられて。魅せられるからこそ、衝動となるのだと。そんな物語。

 最後に「ばかみたい」について。いつも通るたびに、門の鉄格子につかまって<わたし>を見つめる白いワンピースの少女。2人の少女は、互いに互いを“ばかみたい”と言い合うのである。学校へ行く少女と、行かない少女。勉強する少女と、しない少女。少しずつ近づいて、けれど少しずつ遠ざかって。幼い少女であるゆえに、もどかしいやり取りが続く物語だ。もしも少女たちがもう少しだけ大人であったならば、もう少しだけ言葉が足りていたならば…。あり得ない“もしも”をめぐらせながら、わたしは思う。これでいいのだ、と。明かされない具体的な事情が少なければ少ないほど、寄り添えることもあるのではないか、と。“ばかみたい”。その言葉は2人を繋ぐ秘密の合い言葉なのだ、と。

4062734109わたしいる
佐野 洋子
講談社 2002-04

by G-Tools

もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…
にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログ、いっぱい。

|

« 猫の本 藤田嗣治画文集 | トップページ | 口ひげを剃る男 »

25 佐野洋子の本」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

うわあ。私も、おとといまで、佐野エッセイ(「右の心臓」)を読んでいたんですよ♪
私も、「子どもって残酷」なんだということを改めて思い出させられ、すっかり、毒気にあてられた感じになっています。ふう。
佐野さんのエッセイって、本当にスゴイですよね。

投稿: こもも | 2006.07.19 05:33

こももさん、コメントありがとうございます!
ちょうど同じ時期に、佐野さんワールドにいらしたのですね。
エッセイも画も小説も、素晴らしくいいですよねー。
この毒はなかなか抜けませぬ。とろとろ。もしや子ども恐怖症に…(笑)
「右の心臓」は未読なので、読んでみようと思います。

投稿: ましろ(こももさんへ) | 2006.07.19 20:02

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/55029/10996559

この記事へのトラックバック一覧です: わたし いる:

« 猫の本 藤田嗣治画文集 | トップページ | 口ひげを剃る男 »