« 光とゼラチンのライプチッヒ | トップページ | ペニーさん »

2006.05.13

動く箱

20050512_44007 家という名の入れ物。住処というもの。人の器。その大きさがどうであれ、どんな形態であれ、わたしたちはみな、そこで生活を営む。逃れようもなく関わり合う。ときに心を揺さぶられる。魚住陽子著『動く箱』(新潮社)に収録された作品はいずれも、そういうものを思わせる。から箱、夜の箱、箱の日々、音の箱、箱の上、声の箱、の短い6つの話からなる、表題作「動く箱」。雨のもたらす疼きと執着を描いた「雨の箱」。ある程度の歳を重ねた女性が、自分だけの家を求めて過疎化の進む地で家を見て回る「流れる家」。家族を放って違う生き方をしようと決めた女性の、家を出るまでの葛藤を描いた「敦子の二時間」。今日のような雨のしとしと降るときに、よく馴染む作品ばかりである。

 “待つことは病気だ”という文章が出てくる。流れゆく時間というものを、時間そのものとして捉えることは、ひどく難しい。わたしたちは、そこで何かをせずにはいられない。或いは、何もかもが手につかない。ただそこに佇むのは、それだけのことながら、あまりにも厄介で、逃れようもない。言ってみれば、重みだ。わたしはこの作品の中に、そういう重みの中ですら、さまざまに試みる人を見る。これから起ころうとする重み(重圧)と、じりじりと向き合う人を見る。過ぎ去った重みに、囚われた人を見る。重みに耐えかねて、すべてに押しつぶされそうな人を見る。待つ。待てない。その狭間で揺れて、わたしたちは日常というものを埋めている。そんな気がする。

 「敦子の二時間」。まさにこれは、時間の重みを感じる作品である。描かれるのは、たったの2時間なのだが、その限られた時間だけで、積み重ねてきた年月というものを知ることができる。そして同時に、たったそれだけの時間で、積み重ねてきた日々が壊れることに気づいて、はっとするのだ。重くのしかかるものが、後々引きずるにしても脆いことに対しても。踏み止まることも、踏み出すことも、同じくらい重いものであることに対しても。憶病なわけじゃない。決して強いわけでもない。忍耐だなんてとんでもない。めぐりめぐって苦しいのは、どちらにしても、どんな選択をしても、大して変わらないのではないだろうか。残念ながら、ここに根拠はないのだけれど…。

 さて、日常を埋めてきたものの象徴としての入れ物である、家。「流れる家」には、さまざまな家とそこに暮らす人々を描き出している。想像をもめぐらせる。意識せずとも、どうしても滲み出てしまうそれは、もしかしたら、人の表情や仕草、言葉よりも、ずっとずっと鮮明にわたしたちを映すものなのかもしれない。わたしたちが染められるのか、染めるのか。読みながら、思わずわたし自身とわたしがいる場所との関係の正体を探ってしまった。このよく馴染んだ住処は、わたしらしいのか。わたしそのものなのか。いつからなのか。どこからなのか。物語の展開や結末なんぞそっちのけで、あれこれもぞもぞと思考をめぐらせるわたしだった。ここには生き物のごとく、感情が住みつくのだ。

410384003X動く箱
魚住 陽子
新潮社 1995-11

by G-Tools

もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…
にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログ、いっぱい。

|

« 光とゼラチンのライプチッヒ | トップページ | ペニーさん »

06 魚住陽子の本」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/55029/10048784

この記事へのトラックバック一覧です: 動く箱:

« 光とゼラチンのライプチッヒ | トップページ | ペニーさん »