« ねこのせんちょう | トップページ | 動く箱 »

2006.05.12

光とゼラチンのライプチッヒ

20050510_44002 インプットとアウトプット。そのバランスを思って、しばし息を止めてみる。入る、入らない。2つの事象の狭間で、なんとかしてここに居ようと強く踏みしめてみる。それがただの悪あがきでないことを祈って、わたしは目を閉じる。そして、いつか果てる脳内の思考に、ゆっくりとブレーキをかけ始める。多和田葉子著『光とゼラチンのライプチッヒ』(講談社)の企みは、そうやってわたしを不可思議な世界へと誘う作品だった。洗練された言葉は、密やかに笑みを洩らして遊び回り、ぐるぐると廻り進む終わりなき思考は読み手を心地よく乱す。これからどこへ行く。どこまで行く。どこから来た。どこに居る。わたしはわからぬままに、ただ旅する。はて。小説を読むとは、こんなにも愉しかっただろうか、と。

 この作品に収録されているのは、10の短篇。流れ続く思考と言葉遊びが愉快な「盗み読み」。きのこさんと“わたし”の奇妙な聞き違いと思考のよじれ。溶けゆく脳内を描いた「胞子」。靴を見失う「裸足の拝観者」。猫をきっかけに自分を知る「ころびねこ」。見知らぬものに囲まれることに慣れてしまった女性が、ふと気づきを見出す「砂漠の歓楽街」。観光客であることと、今居る地に馴染むこととの境界を思わせる「チャンティエン橋の手前で」。ひらがなの不思議を感じる「ちゅうりっひ」。燃えるゴミが100グラム100円となった世界で、いかに捨てないか思考をめぐらす「捨てない女」。舞台を模した「夜ヒカル鶴の仮面」。西と東。そこにある差と強い自意識を感じる、表題作「光とゼラチンのライプチッヒ」。

 中でも面白かったのが、「胞子」。“きのこさん”という個性的なキャラクターが生きている作品である。主人公ときのこさんの駆け引きというのは、言葉のニュアンスと創造とにあって、可笑しく奇妙に読み手を刺激する。“ききちがえた”と“きちがえた”。“かして”と“おかして”。間違った表現の中に見出す世界は、ときに想像力を高め、不思議の国へと思考をめぐらせる。きのこさんの言葉に触れてしまうと、ふと清く正しく美しい言葉というもののつまらなさを思う。もっと言葉は、やわらかなもの。自由に連ねるべきもの。なによりもわたし自身が愉しく。心地よく。気持ちよく。たまらなく。囚われずに。日常というのは案外、ちょっとしたことで面白いものになるのかも知れない。

 それから、もうひとつ。「チャンティエン橋の手前で」について。ここに描かれる滲みというものに、わたしは惹かれずにはいられなかった。ぼんやりと目の前にあるもの。文字らしきもの。その意味するところ。いつまにやら、わたしたちは学んで、知識を蓄えて、それらを意識せずともわかるようになってゆく。自分の中にあるいくつものキーワードは、その場その場で巧みに選ばれてゆく。例えば、ベトナムという単語。観光客という単語。そこに滲む思考は、わたしたちの行動を捕らえる。そして、決定する。わたしたちはそれらしく、その通りに振る舞うことになる。わたしという概念のままに。めぐらせた思考のままに。考えてみれば、不思議なくらい精密な回路だ。わたしたちは廻る。それは、いつか果てるまで続くのだろう。

4062100312光とゼラチンのライプチッヒ
多和田 葉子
講談社 2000-08

by G-Tools

もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…
にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログ、いっぱい。

|

« ねこのせんちょう | トップページ | 動く箱 »

36 多和田葉子の本」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/55029/10034916

この記事へのトラックバック一覧です: 光とゼラチンのライプチッヒ:

« ねこのせんちょう | トップページ | 動く箱 »