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2006.04.19

雨のち雨?

20050721_44069 経験を積むこと。歳を重ねること。そういうことが必ずしも成熟というものに結びつかないことを、私はなんとなく知っている。あくまでも曖昧に。自分勝手な理論をあれこれ並べてみたりして。岩阪恵子著『雨のち雨?』(新潮社)を読み耽りながら、成熟と未熟の境界がわからなくなって、私よりもずっと年配の人物に寄り添って、共鳴して、安堵している私がいた。そして気づく。人は経験を積んだからといって、立派な人間になれるわけではない。歳を重ねたからといって、尊敬される人間になれるわけではない。大人と呼ばれる年齢になったとしても、すぐに大人然となるわけでもない。子どもが子どもを産むとか、大人げないとか。そんな言い方があるのは、きっと人はみな一生未熟で、学ぶべきことが尽きないからなのだろう。

 まずは、表題作「雨のち雨?」から。ある日突然、夫が失踪してしまい、その妻が義母と共に暮らし始める話である。行方のわからない夫を捜すべく、妻も義母も何か懸命に手を尽くすわけでもなく、警察沙汰を避けるようにお互いを探り合い、ただ待っている。今日帰ってくるかも知れない。そうでなければ、明日帰ってくるかも知れない。そんな淡い期待を抱いているかのように。しまいには、失踪という出来事を楽しんでいるようにも思えるくらい。妻と義母の遠慮がちでぎこちない関係がふとした瞬間に近づくのは、なんだかはっとするほどの奇跡のようでもある。女という生き物は、ときとして不思議なくらいに結びつくのだなと思い知る。男性には理解できぬ部分が、ここには描かれているのかも知れない。

 そして「鮮やぐ夏」。老いた両親のもとにたびたび訪れる女性が、たまたま目にした新聞記事から、幼き日々の出来事を甦らせる話である。強い日差しと裏庭のノウゼンカヅラの色。ずいぶん月日が経ってから、あの時はこうだった。ああだった。消化しきれぬまま封印していた光景が鮮やかなものとして思い出されるとき、私たちはきっと、人として幾重にも成熟するのかもしれない。一歩。また一歩。そうやって少しずつ進みながら、自分なりのすべで収めてゆくのだろう。後悔しても戻らない日々は、戻らないからこそ未熟な私たちを大きくする。それでも過ちが繰り返されるのは、私たちがいろんな意味でまだまだ未熟ということだろう。だからといって、そこに安住していてはいけないのだろう。

 もうひとつ「子の闇」を。なにが原因か。なにがきっかけか。登校しなくなった息子を抱える女性の話である。能天気に励ましの言葉を放つ夫はもはや頼りになどならず、彼女は息子を叱ることも責めることもできずにいる。それは他でもない、彼女が息子と似たような時期を過ごしたことがあるからだった。その頃の周囲への違和感や葛藤が、同じものかどうかはわからない。けれど、彼女は彼女なりに寄り添おうとしている。曖昧なまま放置していた思いと、向き合おうとしている。大人として見下ろすのではなく、同じくらいの、或いは少し低いくらいの、そういうところに目線を合わせているのだ。未熟じゃなければできないこと。未熟だからこそできること。私はそれを大切にしたいと思う。

4103847034雨のち雨?
岩阪 恵子
新潮社 2000-06

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