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2006.04.20

あたしの一生 猫のダルシーの贈り物

20050220_188 きっと私の人生は、猫なしでは語れない。私は毎日のように猫と話がしたいと繰り返し、通じもしない微妙なニュアンスの、限りなく雑音に近い声で話しかけている。愛猫の大きな目は私を捉えながらも、少しばかり見下して、迷惑そうにプイと顔を背けるばかりだ。そんな小さな傷つきをいくら重ねても、私は懲りずにまた猫に語りかけている。つもりになる。ディー・レディー著、江國香織訳『新装版 あたしの一生 猫のダルシーの贈り物』(飛鳥新社)は、猫らしい猫の一生を描いた、猫好きにはたまらない1冊である。猫に語りかけているつもりでいる私のような、少々勝手で自分本位の飼い主と、寄り添ったかと思えば離れる、気ままな自意識を常に感じさせる猫、ダルシーの物語だ。

 物語は猫のダルシーの視点で、生後2、3週間目の頃から17歳4ヶ月で最期を迎えるまで描かれる。母猫から学んだことを守り、見極め、賢く鋭く(ダルシーいわく)“あたしの人間”や周囲を見ている。そこにあるのは、人間よりも遥かに上の立場にいる猫の姿。猫は人を思いのままに動かし、過ごしやすい環境と好みの食べ物を手に入れるすべを知っている。手に入れるためには、与える。与えれば、与えられる。そういう図式は、いつのまにか変化する。どうやらそれは、“愛”というものらしい。芽生えた思いは大きくなり、やがてすべてにもなる。その流れがリアルなのは、細やかなのは、これが実話だからに違いない。ただ、私自身は“愛”をよくわかっていないのだけれど。

 ダルシーの目を通して描かれる人間像というものは、結構好き勝手で曖昧なものだ。悲しみに暮れる飼い主がどうやって立ち直ったのかとか、何をしにどこへ出かけたのかとか、例えばそんなことがよくわからないまま終わる。猫は人間の事情がわからない。人間も猫の事情がわからない。そして、いつも離れずに寄り添っているわけではないことを、正しく読み手に伝えている。毎晩一緒に眠るわけでもなく、絶対的な信頼関係があるわけでもなく、猫と人間とが別の生き物であるということを感じさせる描き方なのだ。ダルシーを猫として、猫らしい生き物として見せているのは、そこであるように思う。私はそこを、たまらなく愛しいと思う。

 猫の一生は短い。17年も生きたダルシーは、長生きの部類に入るだろう。その短いダルシーの生は、深く心の奥まで疼かせる。ある意味、無駄に長く生きた人間よりも、ずっと密度の濃い時間を生きたようにも思えてくる。最後の最期まで飼い主を“あたしの人間”として見ていることには変わりないのだけれど、物語のはじまりとおしまいでは、ダルシーの思いの雰囲気が違っている。ずしんと響く思いは、ちゃんと伝わっていないかも知れないけれど、もしかしたら、その4割くらいは感じ合うことができるんじゃないか。ただ視線を交わすだけでもいい。触れるだけでもいい。ささやかなものでも、私たちは結びつく。それが一瞬のことでも。私はそれを、信じてみたい気がする。

487031696Xあたしの一生―猫のダルシーの贈り物
Dee Ready 江國 香織
飛鳥新社 2005-12

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