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2006.04.05

受胎告知

20050407_006 わたしは今、奇妙な心地に包まれている。その正体を知るすべもなく、ただモヤの中を手探りで進む迷い人のようだ。ポール・ギャリコやルイス・キャロル、アナイス・ニンなどの訳者として知られる、矢川澄子著『受胎告知』(新潮社)に対するわたしの率直な感想は、そんな感じである。収められた3つの作品は、どれもイタリアと深い関わりを持ち、もがき足掻く人々を思わせる。どこか均衡の危うい人々は、文章に満ちる神秘と謎に彩られて、美しくも悲しくも感じられる。なんとも不思議な心地なのだ。著者没後に出版されたこの作品は、限りなく著者の分身に近いとされているらしく、興味をふつふつとわかせるものだ。わたしの拙いすべをフルに用いてでも、探ってゆくしかないとさえ思わせる。

 まずは「ファラダの首」から。イタリアにある、こぢんまりとした骨董屋が舞台である。そこを訪れた日本人旅行者が、ウィンドに飾られたチェス駒のことを店主に訊ねるのだ。ちょっとしたいたずら気から、予想される価格よりもゼロを多く言い、まことしやかにあることないこと語ってみた店主。それゆえなのか偶然なのか、旅行者の中の老婦人はへなへなと倒れこんでしまう。そんな些細な出来事は、忘れた頃に奇妙なものへと変化する。夢と幻想に覆われて、読後のモヤは心地よい余韻を残す。老いてもなお、忘れ得ぬものがあること。少女として。乙女として。やはり女として…そう思わずにはいられない。死を迎えるまで、わたしは少女であり、乙女であり、女なのである。

 続いては、表題作「受胎告知」。これは、恵のモノローグ、牧子のモノローグ、秀介のモノローグの3つからなる物語。3者それぞれの独白は、少しずつ密やかに繋がりを感じさせる展開で、はっとさせられる言葉がいくつも散りばめられている。父と子。その、或るかたち。物語全体としたら、わたしはそれを一番に思う。父と知らずに。父という枠組みを超えて。そして、あちこちに横たわる人間としての悲劇。さらりと描かれる物語の中には、深い根が張り巡らせてあるのだ。人はみな、この世に生まれ落ちたときから、いや、それよりもずっとずっと前から、悲しみを背負っているものなのかもしれない。だからこそ、それ以外のものだって背負っているのだろう。

 最後に「湧きいづるモノたち」。父親の死後、母親が鬱病を抱え、その介護に疲れた主人公が、求めていた人と出会い、悩みながら旅する物語である。一対のものとして捉えていた両親を、一人として感じるまでに至る思考。母と自分との相違。生まれ育った境遇。心の拠り所。それらのものを省みて、もがき足掻いて進もうとする姿は、ひどくわたしを惹きつけた。わたしの思い描く正しい人間の姿が、“まさにここにあった”というべきかもしれない。大きなモノと、イタリアという地で目にしたモノ。わかりやすいカタチをしたモノたちは、ゆっくりと、でも確実に、主人公の心を埋めてゆく。きっと、わたしの心もいつかは必ず埋まるだろう。そんなふうに思わせてくれるのだ。

4103278048受胎告知
矢川 澄子
新潮社 2002-11

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