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2006.03.21

シッダールタ

20050223_008 ありふれた景色。いつもそこにある景色。私が目を向ける先にあるもの。見えるはずなのに、見えていないもの。或いは見ているふり。目を向けたふり。闇は闇として、本当にそこにあるのか。光りは光りとして、本当にそこにあるのか。私は闇を、光りを、あるべき姿として捉えているのだろうか。ヘルマン・ヘッセ著、岡田朝雄訳『シッダールタ』(草思社)を読みながら、そんなことを自問自答していた。私の前に広げた右ページの下にある、読み終えたページの重なり。それは時間と共に、思考と共に、少しずつ厚みを増してゆくけれど、そこに並んでいる文字の連なりを、すべて理解できているとは言い難い気がして。深遠な思想や探求心のない私は、読み終えたページを反復しながら目で追うばかりだったような気がする。

 この物語は、インドの青年シッダールタ(釈迦と同名だが別人)が、生の真理を求めてさまざまな場所でさまざまに暮らし、人として悟りに至るまでを描いた寓話的作品。多くの悩みや葛藤の中で、どう生きるべきか。何を信じるべきか、問いかけてくる。宗教や信仰、身分、国民性を超えて展開されるシッダールタの生き様は、心揺さぶられて惹きつけられるものがある。自分の進んできた道が正しいと思えることに、勝るものはないのではないだろうか…なんてことまで思わせる。人生における愚かさ、悪徳、過ち、嫌悪、失望、悲しみ。それらを通り抜けてこそある、今というもの。私はそれを信じてみたい。自分の目を通して、自分の心で、自分の身体で実際に体験したことを、味わい尽くしてみたい。そのように思わせる。

 シッダールタの生きる道で邪魔をするもの。それは、知識である。あちこちを彷徨いながらの自我との闘いにおいて、悩みの多くを占めていたものだったかも知れない。シッダールタの場合は、詩行や供犠(くぎ)の知識、度を超した禁欲や活動や努力がそれであった。上へ上へと向くばかりの精神は、気づかぬうちに障害と化していた。そして、賢さは高慢におかされてゆく。人として豊かだったり、賢かったり、尊かったり、そういうものが必ずしも上を向くことではないこと。それを意味する、物語の中に出てくる“下方を目指し、沈んで底をきわめる”という言葉は、私の中で深く響く余韻としていつまでも疼いている。下ることは、それほど悪いことじゃないのだと。下ることも、なんらかの糧になるのだと。

 そうして同時に、こうも思う。人の生き方と自然の摂理とが、相容れないものだということを。河が、下へ下へと流れてゆくのを。葉が、木の枝から落ちてゆくのを思いながら。シッダールタが最後に悟りを見出したのは河だけれど、人はときとして河を超えると思うのだ。人は下っては上がる。上がっては下がる。落ち続けるばかりではない。這い上がれるのだから。地の底からも、ずっとずっと深い場所からでも。河の水が喜びに満ちて下るとしても、葉が地に帰ることを望んでいたとしても。また、そんな過程の中で自分自身に学ぶこと、自分自身の神秘のようなものに興味を抱くことを思うのだ。ここにある疼きは、あらゆるものを希求する、ささやかなきっかけになると思うから。まだまだ人生、捨てたモノじゃないのだ。

4794214693シッダールタ
Hermann Hesse 岡田 朝雄
草思社 2006-01

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