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2006.02.21

ぼくとネモ号と彼女たち

20041219_006 私は私。身勝手ながらも大事な姿勢を、私は何かにつけて忘れてしまう。私というのはどんな人間であるか。私とはどんな存在であるか。考え始めてしまったら、哲学にもキリのない無駄な足掻きにもなる、そんなことを。次第に思考を閉ざし出す私の中に、違和感なく流れ込んできたのは、角田光代・著『ぼくとネモ号と彼女たち』(河出文庫)という作品で、その流れのスピードに掻き立てられるように、私の思考はめぐり出す。私は誰でもいい。誰でも私。誰かが私。私は誰かなのだ。身勝手なのは変わらずに、ただめぐってゆく。思考がめぐる。私の中を。誰かの中を。それとも誰でもないところを。麻痺し出した思考は、それでも物語をめぐる。めぐったつもりになる。

 物語は、情けないリアリティに満ちている。バイトで稼いだ金をはたいて買った中古の愛車、ネモ号。欲しかったモノを手に入れてしまった男は、その後の目的を失い、ネモ号と共に当てもなく旅に出る。だが、旅は道連れというものか、愛車の自慢に唯一反応を見せた、かつて自分に好意を抱いていた女性を助手席に乗せて行くことになる。車内にはフィギアとコレクションしているスニーカー、いざというときに売るためのレアモノのレコード。目的地がないゆえ、あまりにも身勝手な思いゆえ、降りて欲しくなったら助手席を空けてもらう権限を持つ。“乗りたいんだったら、乗せてやってもいいけど?いつでも降りてくれるんなら”みたいな男。非常にむかつく。でも、助手席の女性は、もっとむかつく設定だったりする。

 行き当たりばったりの旅は、助手席の女性を変えながら続く。交わされる言葉も、めぐらされる思考も、相手が違うことによって微妙に異なる。きっと、主人公の男は登場する3人の女性に、彼女たちの男への接し方がそれぞれなのと同じく、三人三様に思われていたに違いない。退屈極まりない自分の話ばかりする女性にも、無愛想ながらも魅力的な女性にも、突き放した雰囲気の漂う年上の女性にも。男の接し方が少しずつ巧みになってゆくのは、やはり経験が物を言うということか。車に乗っているという設定が変わらないせいか、欲望が人を動かすせいなのか、見ているもの、目につくもの、というのが、ラブホテルとファミレスばかりなのが可笑しい。性欲と食欲は、こんなにも優先順位が上だったのだなぁ…ということに感心する。

 私の抱く身勝手な思考は、物語と共にゆるやかになる。登場人物が身勝手ゆえに、刺激された身勝手さなのかもしれない。そう気づき始める頃、最初に助手席に乗せた女性の思いを悟り始める男。女性の話に苛立ちを覚えた理由。自分の過去に対する、意味づけや装い。どこも出っぱっていない、どこもへこんでいない、例えとりかえてみたって大して変わらぬ月並みなこれまでの日々。傷ついたふり。影響されたふり。ちっぽけな自分と、その周囲。身勝手ながらに気づいた先に、男よりもある意味身勝手な女の対応が、トドメを刺したように思える物語の後半部分。実に愉快だ。身勝手さの均衡は、意外と容易く崩れるのだ。私の均衡も、もちろん脆くも崩れゆく。物語によってめぐらされた、ここにある思考も。

4309407803ぼくとネモ号と彼女たち (河出文庫)
角田 光代
河出書房新社 2006-01-06

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