年を歴た鰐の話
佇まいのいい本の中に、散りばめられたナンセンス。その皮肉に、その頑なさに、ひどく酔いしれることができた、レオポール・ショヴォ原作、山本夏彦翻訳『年を歴た鰐の話』(文藝春秋)。もうただ一言、“スバラシイ”で済ませたくなるほどに、芸術と文学を感じる作品である。可愛いようで残酷な挿絵に絡みつくような完全なる日本語の訳が、見事に独特の物語世界を作り出している。あまりに古風で今となっては使われることのない漢字の用い方、言い回し、文体の在り方、どれをとっても唸るほどである。実はこの本、戦前に出版されたものの復刊本。様々な歴史的背景と、時代を超えてもなお読者を惹きつける魅力がある様子。訳者による冒頭の紹介文や、巻末の吉行淳之介らによるこの作品に纏わる文章がそれを物語っている。
ここからは3つの収録作品について記す。まずは「年を歴た鰐の話」を。主人公は老いた鰐。彼は自分の欲望に負けて、家族であるはずの曾孫をつい食べてしまう。身体が若い頃のように動かなくなり、餌を自分で採ってくることができない云々という理由はあるにせよ、これは共食い。それ以降、老いた鰐は仲間から追いやられることになる。しかし、性懲りもなく老いた鰐は再び過ちを犯す。自分のために餌を採ってくる唯一の蛸を、毎夜少しずつ食べ始めてしまうのだ。2匹の間にあったはずの愛も虚しく。海を漂い、老いた鰐が死を想い辿り着いた先にある残酷な人間の儀式。そこに含まれた何とも言えぬ愚かさが、余韻となって残ってゆく。
続いて「のこぎり鮫とトンカチざめ」。病気で寝台にいる父と、傍の安楽椅子に座っている息子との奇妙で偏屈でおかしな会話による物語である。父に“のこぎり鮫とトンカチざめ”のお話をせがむ息子。ユーモアたっぷりにも残酷にも物語る父親だが、息子の方が断然上手。5つという設定ながら、実に生意気な口を持っている。あっさりと物語を終わらせてしまいたい父。“面白いのだからもっと続きが知りたい”とおだてることを忘れずに物語をせがむ子。ここにも愚かな人間の姿がちらり。生きることに盲目になる私たちへの皮肉。その盲目さゆえに訪れる悲劇。当然喜劇も。誰かの犠牲によって生かされることへの疑問。でも今は、寓話の意味を深く考えたくはない。
最後に「なめくぢ犬と天文學者」。サーカスで學者犬として活躍している“なめくぢ犬”が、チョコレート色の盲人の手引きを職業とする犬と出会うところから物語は始まる。数字を読み、奇算、引算、掛算、割算をやってのけるなめくぢ犬の特技を見込んで、チョコレートは天文學者の主人の元に誘う。目が見えず計算もできない主人のために、チョコレートは星をさがし、なめくぢは計算をする。主人はただ考える。が、そんな日々は穏やかなまま続かない。続くはずがない。目を背けていた現実と真実にぶち当たるわけである。なんという皮肉。なんという幸運。ハッピーエンドながら、どうにもこうにも人間は愚か。犬の方が利口にそつなく生きているのだ。
![]() | 年を歴た鰐の話 山本 夏彦 文藝春秋 2003-09-12 by G-Tools |
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