となり町戦争
ある日ふと届く、戦争の知らせ。気配もなく。自覚もなく。覚悟もなく。最も効率的で将来性のある地域の活性化の手段として用いられる戦争。三崎亜記・著『となり町戦争』(集英社)には、そういう世界が描かれる。主人公は、戦時特別偵察業務従事者の任命を受けるものの、戦争が見えてこない。人々が戦う様子も、死んでゆく姿も、戦争の音も光りも気配も。けれど、確実に戦争は起こり、人が死に、どこかで何かの利害関係が出来上がっているらしいことを感じている。あくまでも数字や人づての情報として。事務的な面を貫く行政からの指示に従い、戦争への疑問を抱えつつも意識のないまま戦争に加担していく。それが、実際に“戦う”という行為ではなくとも、誰かの、或いはよく知る人の生死にかかわることも知らずに。
物語の中で戦争の中心となるのは、主に行政やコンサルティング会社。そういう組織が戦争をプロデュースしている。人を殺すことに重点が置かれていなくとも、死にゆく人々がいて、知らず知らずのうちに戦争に加担し、戦争と人とが繋がる。戦地となる町の人々は、戦争の中に自分の利害ばかりを見ている。そういう町の人々の姿は、組織によるやらせだったのかもしれないが、戦争を誰も否定しない。賛成もしない。目の前にあるものとして、ただ受け入れる。そして、意見する者を奇異の目で見る。もちろん、戦争に対する姿勢はそれだけではなく、中には積極的に関わり、自ら進んで戦う者がいる。彼らの動機は様々であるが、その戦いの様子は描かれない。それゆえに、彼らの死や犠牲となった誰かの死が響いた気もする。
戦争。それについて考えるとき。終戦記念日に。ニュースで流れる戦闘の光景を目にしたときに。祈りを捧げるその瞬間、私の中には果たして何があっただろうか。平和への思いか。失われるものへの痛みか。いつまでもくすぶる傷跡の悲惨さか。そんな問いを自分に投げかけてみるのは、自分の祈りに疑問を感じたからにほかならない。思えば私は、戦争の痛みというものを直に知るわけではないし、見たり聞いたり読んだりする中で感じたものを、自分なりに解釈することでしか知り得ない。そんなすべしか持たぬのに、わかったつもりになる。消えぬ傷跡の残る地を訪れ、体験者に話を聞く。それすらも、ごく限られた情報であるのに、知ったつもり学んだつもりになる。愚かにも、私は。
そう、何も戦争に限ったことではない。人の痛み、誰かの痛み、心の痛み。そういう類のものに対して、安易に共感したり同調したりすることも、考えてみれば何かがおかしい。寄り添うのはいい。耳を傾けるのもいい。けれど、“わかるよ”とか“私もそうだよ”とか言うのは違うのではないのか。根本的に、何かが。つい口を滑る容易さに、使いやすさに、流される私という自分に対して思う。その痛みはあなたのものじゃない。この痛みは私自身だけのもの。喜びも悲しみも怒りも、何もかもすべてが主観的で個人的で限られた一部の人たちのものであるのだと。けれど、愚かな私はまた何かの拍子に口を滑らせ、誰かに理解を求めてしまうのだろう。ねぇ、聞いて。わかって。私を認めて。例えばそんなふうに。
![]() | となり町戦争 (集英社文庫) 三崎 亜記 集英社 2006-12 by G-Tools |
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コメント
ましろさん。こんにちは。
ましろさんの文章にただただ感心するばかり、でした。
TBさせていただきました。
投稿: なな | 2005.12.22 09:15
ななさん、コメント&TBありがとうございます!
恐縮です。物語のテーマとの関連性がうすく…
ななさんの記事、楽しみに読みますね。
投稿: ましろ(ななさんへ) | 2005.12.22 11:26