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2005.12.27

キス

20041113_055 心の奥深く。いや、もっと根源的な部分に迫りくる人間の持つ闇を描くノンフィクション作品、キャスリン・ハリソン著、岩本正恵訳『キス』(新潮文庫、新潮クレスト・ブックス)。記憶の断片を丁寧に、でも淡々と綴るタッチは、どんなに生々しい場面でも血を流す場面でも変わることがない。その冷静さと真摯さにひどく驚かされながらも、目の前に差し出される痛みや苦しさに、知らぬ間に向き合っている自分を感じる。それは多分、本当の意味での寄り添い方ではない。何となく向き合ってみた類の、一時のものなのだろう。けれど確かに、この作品には読み手を惹きつける魅力がある。間違いなく。

 描かれているのは、父親の不在。それに伴う母と娘の確執。父親との運命的な再会の果てにある、近親相姦。時を経ても消えぬまま続く、暗く重い出来事の数々。一人称の現在形を貫いて描かれるそれらは、感情的になることを許さない。無駄のない削ぎ落とされた文章は、呪縛のように絡みつくあらゆるものを胸に刻ませる。それは、1人の女性の凛とした美しさと強さを思わせる。たった1度のキスから始まった過ち、或いは必然というものの重みや痛み。たった二十歳。何かが起きなければ、そこに横たわり続ける過去。これが物語ではないという事実。息が詰まる。でも、目をそらすことができない。とてつもなく惹かれてしまう。

 父親との関係の中に、彼女は自分自身の本当の姿というものを見る。罪深き行為の中に自分の輪郭を定めて。横たわる自分の過去の痛みと怒り、飢えがすべてそこにあることを知る。皮肉にも彼女の未来も含めて。そこにある怒りは、なぜか父親には向けられない。あるのは母親への怒りと自分自身への怒りである。ひどく破壊的な。与えられなかった愛と求めていた愛への。どこまでも“墜ちたよい子”である自分へ。彼女が求め、そして手放すことになる関係というものは、特異なものである。客観的に見れば、道徳に反するような。けれど彼女自身でない私が、それを肯定はもちろん否定もしてはいけないと思う。それはなぜなのか。

 理由は一言で済む。これがノンフィクションであるから。彼女の歩んだ道を、一瞬で消すようなことは言ってはいけない。彼女じゃなく、身近な人であったなら、私は批判めいたことを言うかも知れない。話を熱心に聞くフリをしながら。共感さえ示して。或いは自分自身だったら、茶化してみたり自虐的に語ったりするかも知れない。語れる範囲内ではあるけれど。もし、誰かがこの作品について厳しい意見を言ったとする。それもいいだろう。むしろ、興味深くそれを聞くだろう。でも、私自身は言わない。だって言ってしまったら、微かな彼女の救いすらも消えてしまいそうなのだ。作品を通じて強靱な精神を感じても、やはり救いはあまりに儚いものであると思うから。

4102146210キス (新潮文庫)
Kathryn Harrison 岩本 正恵
新潮社 2004-06

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コメント

ましろさん、こんばんは。
ましろさんの記事を拝見して、ああ、私は「読んで」たわけじゃないのかも、実は文字を追ってただけなのかも、なんて思いました。彼女の苦しさは分かるのだけど、それは単に頭で理解してるだけで、深いところで感じてるわけじゃないのかもしれないです。
ましろさんは、遥かに深く読んで感じてらっしゃる!
…自分の読み方を、思わず反省してしまいました。(嗚呼)

ましろさんの感想が拝見できて良かったです。
TBありがとうございました♪

投稿: 四季 | 2006.06.10 20:33

四季さん、コメント&TBありがとうございます!
実はわたし、この本に何度も挫折していたんですよ。
新潮クレスト・ブックスで出たばかりの頃にも。
深く読めているのならばいいのですが…
思いが重いあまりに、逃げてしまった感じもあります。
わたしも四季さんの感想が拝見できてよかったと思ってます。
今後もどうぞよろしくデス!

投稿: ましろ(四季さんへ) | 2006.06.10 23:06

ましろさん、こんばんは♪
今回はTB失敗しました(汗)

普段、ノンフィクションは皆無と言っていいぐらい読まないので、これもクレスト・ブックスの御縁だね(笑)

フィクションみたいにこの展開の方が良かったとは語れませんよね。
でも、テーマは重いけど文章が良いので読みやすいのは読みやすいですね。
この訳者岩本さんの訳文もかなり巧いと思います。
小川洋子さんがこの作品や『巡礼者たち』を評価してますけど、『巡礼者たち』も岩本さんですわ。

いろんな感じ取り方があってしかりな作品でしょうが、ましろさんの感想はさすがです、脱帽状態。

投稿: トラキチ | 2009.03.27 21:10

トラキチさん、コメントありがとうございます。
あら、またまたTBだめでしたかー。
何が原因なんでしょうね。はて。

そうなんです。フィクションじゃない作品を語るには、
軽々しくいろいろ言ってはいけない気がしてしまいます。
テーマがテーマなだけに…。
安っぽい共感はいけない気がするんですよ。

でも、この作品はとても読みやすいですよね。
翻訳による影響も大きいと思います。
わたしも小川洋子さんを通してこの作品を知ったので、
クレスト・ブックスには感謝感謝です!

投稿: ましろ(トラキチさんへ) | 2009.03.27 21:22

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