« カレーソーセージをめぐるレーナの物語 | トップページ | 縛られた男 »

2005.11.16

無垢な悪女

20051003_119 若さゆえの孤独というものを思わせる、早熟な少女たちの物語、桐生操・著『無垢な悪女』(あんず堂)。1969年~1970年の初期作品「人はみな幻想を」「致死量の愛」「古めかしい騒ぎ」「露台」の4つを収録。どの作品にも通じるのは、強い自意識とナルシシズム。ある一定の時期に誰もが抱え得る、少々気恥ずかしさを覚えるそれ。多分それについて恥ずかしさを感じるとき、人は自分自身の“老い”というものを初めて意識するのかも知れない。頭でっかちの少女たちが“老い”を自覚し始めるのはあまりに早く、その中途半端な絶望に強い痛みを知るのだ。同時に、己の無力さにも。

 「人はみな幻想を」には、19の少女の声にならない悲鳴のようなものを感じる。それも赤い悲鳴。13の頃と19の今が交錯する物語は、TとMという親子の間で揺れる少女の姿が鮮明である。少女の求めるものは、夢見がちと言ってよいだろう。誰かによって崩れ落ちること、憤慨すること、所有されること。“この世で一番不幸なのは忘れられた女です”と放った画家の言葉が、少女の中に深い根をはっている。その若さで。その若さゆえに。物語は、“若さ”というものの残酷さを語り尽くす。“若さ”が素晴らしいだなんて、一体誰が言い始めたのだろう。この痛みに、絶望に、慣れろとでも言うのか…そんな私の怒りは、私自身に向けられたものに違いない。

 「致死量の愛」では、無邪気な質問を放つことが出来る時間が限られていることを、読み手に知らせる。健全な肉体と魂を持っていることを、そっと教えてくれる周囲の対応もいつまでも続かない。現実を寄せつけずに、驕り高ぶった心を持ち続けていられたはずの時間。それは僅かな刹那。老いを疑い始めた者にとっては特に。人は、あるがままではいられないのだ。「古めかしい騒ぎ」は、ほんのりと棘のあるやり取りが印象的。友人であろうが長い付き合いであろうが、介入出来ない関係というものがある。例えば、AとBとCが一緒にいるとする。けれど、AとBの間にCは割り込めない。BとCの間にAは割り込めない。本当の意味では。そんな生身であるがゆえの人と人との関係性を描いている。

 最後に「露台」。自分が生きていくのに最もふさわしい場所。それについて年月を経て今振り返ると、望んでいたものをまだ得ていないことを気づかされる。生きていく上での苦しみすら、多分自ら選んできたはずなのに。そんな思いを抱かせた物語は、私自身にぴったりな言葉を探してくれた。そう、私はただ、今の自分がある理由を書き留めておきたいだけなのだ、と。どうして此処でくすぶっているのか、知りたいのだと。人はそれを甘いと言うかも知れない。怠惰だと、自分を正当化していると、単なる逃避だと。けれど、ただひっそりとうずくまることしか出来ない時間は、退屈よりはずっといい。あの、底知れないどろどろっとした退屈よりは。

4872828046無垢な悪女
桐生 操
あんず堂 2005-04

by G-Tools

もしもお気に召しましたら人気blogランキングへ…
にほんブログ村 本ブログ←素敵ブログがいっぱい!

|

« カレーソーセージをめぐるレーナの物語 | トップページ | 縛られた男 »

74 その他の本」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/55029/7143333

この記事へのトラックバック一覧です: 無垢な悪女:

« カレーソーセージをめぐるレーナの物語 | トップページ | 縛られた男 »