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2005.11.12

四月の痛み

20050527_22169 人を形づくるものとしての経験だとか、年齢だとか、そういうものは大した意味を持つものではないのかも知れない。そんな思いを抱かせたのは、フランク・ターナー・ホロン著、金原瑞人・大谷真弓訳『四月の痛み』(原書房)である。執筆当時26歳だった著者が描いたのは、老人ホームで暮らす86歳の元弁護士が主人公の物語。人生の終わりを目の前にした人間にとっての死、老い、仲間とのふれあい、日々の出来事などについて描かれている。年齢を重ねた者の語りがちな説教は一切無く、著者の寄り添うようなやわらかで温かなまなざしを感じさせるもの。人に寄り添うということは、何て素敵なのだろう…私の中はそんな気持ちでいっぱいになった。

 主人公はごくありふれた老人である。目立つ個性もなく、熱心に何かを語ろうとするわけでもない。自分の今いる場所で、穏やかに毎日を送っている。場所が場所だけに、日々の中には死が溢れているのだが、主人公が一番恐れているのは奥の部屋での食事。奥の部屋で食事をするようになった者は、手前の部屋に戻ることがないからである。戻ることがないというのは、その場所で食事を採るようになったものが、近いうちにこの世を去ることを意味している。けれど、主人公と親しい男は自ら進んでその場所で食事をし、ウィンクする余裕だってある。ホームで禁じられていることにもおかまいなしなのだ。彼のおかげで、主人公は日々の単調さから救われていると言ってもよいだろう。

 さて、ここからは物語の中にある、興味深い言葉について。ひとつめは“長い目で見れば、正しい選択とか間違った選択などというものはない。あるのは、選択したか、しなかったか、その違いだけ”という箇所。主人公は、自分の歩いてきたこれまでの出来事を総括してこう言った。どこから道を踏み外してしまったのかとウジウジ考えがちの私には、なかなか痛い言葉である。と同時に、救われる言葉でもある。明らかに罪を犯したのならば話は別だが、過去に抱いた自分自身の感情やそこに生じたエネルギーを肯定するべきだと思わせてくれたから。そして、もちろん受け止めなくてはいけないのだろう。過ぎてしまったことは、変えようがないのだから。

 ふたつめは、“年をとると、死はもはや驚きではない。だが、わたしは驚いている”という箇所。物語の後半に出てくるこの言葉が強く心に残ったのは、それまで語られてきた主人公の温度をさっと変えてしまったからである。周囲や物事に対して淡々と接してきたはずの主人公の、あまりにも近くに死が訪れたからこその気持ち。そして、その死が必然ではなく偶然によるものだったからこその。死が溢れているはずの場所。そこには対極にあるはずの“生”も溢れているのかもしれない。全てを読み終えて、それを強く感じる。物語は死ではなく、生を描いているのだ。タイトルの“痛み”は、きっとそれに伴う驚きか。それとも、“生”そのものなのだろうか。

4562039566四月の痛み
Frank Turner Hollon 金原 瑞人 大谷 真弓
原書房 2005-09

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