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2005.08.02

薄い氷の上のダンス

20050729_041 愛する人の死に関する手記、ペルニラ・グラーザー著『薄い氷の上のダンス』(メディアファクトリー)。ためらいがちにそっと訪れた新しい感情の中、始まったペルニラとロブソンの関係。幸福に満ちあふれた日々は、そう長くは続かなかった。2人の前に、治ったはずの彼の病が立ちはだかる。1992年から1994年までの「以前の私」、彼が亡くなってからの「以後の私」に分けられ、彼を想い続けるペルニラの視点と主観で、丁寧に穏やかに語られている。ページの中に広がる美しく清らかな言葉の数々、静けさ溢れる風景写真がとても心地よく、ゆったりと浸りながら読んだ。

 この手記で印象深いのは、“ふたりの私”がたびたび登場するところ。相反する感情を抱える“ふたりの私”である。例えば、彼にとって私はどんな女性なのかと思いを巡らす場面。そこでは、人々の間に居ることを望み、自分の人生に戻りたいと思う、とても弱い女。そして、彼のために生きることを望み、どんな状況にも順応する女。そのふたりが彼女の中にいる。後者は、残された幸福を掻き集めて、幸せになろうとしている。強い女だと言ってよいかもしれない。彼女のような立場に置かれなくても、迷ったり結論を迫られたりするとき、私たちの心にはこうした“ふたりの私”というものが存在する。アンビバレンスな自分を見つける。

 それから、この手記の中でほっとするところについて書いておく。それは、著者が自分を恥じる場面である。彼女は、病を抱えた彼を始終全力で看病しているわけではない。ときには遊びにも行くし、気晴らしに必要のないものを買ったりもする。空想に耽ったり、今をどう生きようかと怖くなったりもする。そんな自分に対して、情けないくらいの後悔をし、彼のよい支えとなれない自分を責める。彼女の心の中での葛藤を知ると、美しさだけでは語り尽くせない生身の愛を感じる。彼のために、自分のために、2人のために。その3つを網羅する愛は、とても難しいのだと気づく。

 始まりから終わりまで、ずっと著者の視点で書かれているせいか、病を抱えている当事者の心境はほとんどわからない。彼から発せられる言葉があまりにも冷静でしっかりしているものだから、私はずっと何とよくできた人なのだろうと思っていた。しかし、医師の言葉の中に、彼の抑えきれない感情がちらりと見られる部分がある。彼女に“闘うよ”という力強い言葉を放った後で。もっと弱い部分を見せてもいいのに。気を遣わずに甘えたっていいのに。私はロブソンに、そう言いたくなってしまった。彼なりの愛のかたちであるのか、最後のやさしさであるのか。それは、ただの読み手である私には、理解できないことなのだろう。

4840102589薄い氷の上のダンス
Pernilla Glaser 与田 静
メディアファクトリー 2001-03

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コメント

コメントありがとうございました!
ましろさんの記事と私も同じ気持ちでした。
生身の愛、ですね。
ロブソンが彼女をどんな風に思っていたか、
ペルニラ自身もきっといろんな想像しただろうに、本にはペルニラの想像はいれず、彼の行動や言葉だけで表したところに、ペルニラの強さを感じました。

投稿: りりこ | 2005.11.02 01:06

りりこさん、コメントありがとうございます!
ペルニラ、すごく強いですよね。
自分の弱さを書いてもいるのだけれど、やっぱり強さが印象的。
こういう女性に、とてつもない憧れと尊敬を感じつつ、なかなかそうは生きられないことに、私自身の弱さをひしひしと…

投稿: ましろ(りりこさんへ) | 2005.11.03 16:36

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