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2004.10.23

メメント・モリ

 1983年に出版された藤原新也著「メメント・モリ」。1996年に私は出会った。一眼レフに夢中な頃に、憧れていた大塚寧々さんが雑誌「ダ・ヴィンチ」でお気に入りの10冊の写真集の一つに挙げていたのだった。後に桜井和寿氏が歌にこの言葉を用いて、すっかり流行った。

 目を背けたくなるような写真が多いこの本。痛い写真に痛い言葉。けれど、「しっかり見なくてはいけない」そう、強く自分に言い聞かせなければ、私はページをめくることができない。

 今の社会はあべこべで、ニセモノの生死であふれている。命が見えにくい。本当の死が見えなければ、本当の生も生まれない。MEMENTO-MORI、この言葉は、ペストがはやって生が享楽的になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語である。日本語だと、「死を想え」という意味になる。

 この本の中で気になる部分がある。「あの骨を見たとき、病院では死にたくないと思った。なぜなら、死は病ではないのですから。」という文章である。死が病ではない…死と病とはすごく近くにあるもののように、私は考えてきた。病という言葉もまた、死と近いはずだ。なぜだろう…心にひっかかる。

 そして、ショッキングなのは犬に食われている死体の写真である。そして、燃やされる死体。これほどまでに丸ごと死体を焼いているところなど、目にすることがあるだろうか。こんな光景は多分、今、2004年を生きる人たちは見ないで済んでいるはずだ。私が今まで実際に見てきた死体は、あくまでも遺体であり、美しいものであった。その身体が病に蝕まれていても、冷たくても。かつて、その冷たさに恐れを感じていたこともあった。それは、自分の生を強く感じ、その死を間近に見たからだろう。そして、生と死の境は、意外と側にあるものだと思ったからだ。

 著者は言う、「この本は汚れれば汚れるほど良い。Gパンのように古びれば古びるほど良い」と。例えば、チベットの民が日々をめくる仏典や、イスラムの人々が何百年も使って、文字が読めなくなってしまっても、なおかつめくっているコーランのように。汚れれば汚れるほど、独自の個性を持った本となるのだそうだ。お気に入りの文庫本のように、この本がなることはあるのだろうか…もうこの本を手にしてから、8年が経つのに。この本は、ずっと私の側にありながら、私のモノにはなってくれなかった。だから、私は強い意志のある本だと思っている。

4795810222メメント・モリ
藤原 新也
情報センター出版局 1990-05

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コメント

Memento moriとは、人間とはいつ死んでもおかしくないものと考えて、今日を精一杯生きるという精神。
それは、いまも無事でいることに対する感謝でもある。
人間は死の概念を発見してから、その恐怖を克服する手段として文化を身につけたようだ。芸術しかり、宗教しかり。
実際、カトリックの考えが深く生活に根づいているイタリアやスペインなどの南ヨーロッパでは、その精神論は普通に生活の中に溶け込んでいるという。
それが、陽気の素だったりするんだろうな。

投稿: 藤沢蒼海(ligni) | 2006.05.22 04:09

藤沢蒼海(ligni)さん、コメントありがとうございます!
精神論は、どこまでも奥深く広範囲にわたるため、
なかなかその髄まで辿り着くことはできませんが、
それでも自分なりのMemento moriを見つけたい気がします。
そして、それをしっかりと胸に抱いて、
陽のモノを心の中心に置きたいと思ってみたりするのデシタ。

投稿: ましろ(藤沢蒼海(ligni)さんへ) | 2006.05.22 04:39

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