私がそこに還るまで
正直に生きて。自分を偽らずに生きて。そうやってしか生きられない悲しい女たちの姿が、ときに痛いほどに胸をさす。もっとずる賢く生きられたなら。もっと身勝手に生きられたなら。けれど、それは彼女たちの本意じゃない。それは彼女たちの正しさじゃない。不器用で偽ることを知らない彼女たちの生きるすべが、たとえ深い悲しみに満ちていても、きっと後悔はない。誰よりも正直に生きて。誰よりも自分を偽らずに生きて。そうやって生きることが、彼女たちの信念なのだから。稲葉真弓著『私がそこに還るまで』(新潮社)に収録されている7つの物語は、いずれもそんな女たちが登場する。どう生きたらよいのかもわからぬまま、どうしたって訪れてしまう明日にただ立ち向かう彼女たちが。
寂れたリゾートマンションで休暇を過ごすことになった夫婦を描いた「蟹」、息子の不可解さに呑み込まれる母親を描いた「幼虫」、火に魅せられた女の一人語りである「水位」、思うように動けなくなった老女の淡い記憶をたどる「どんぶらこ」、この世に未練を残したままの孤独な女性が回想する「空いっぱいの青いクジャク」、一人きりで観覧車に乗り込んだ女子高生があれこれ思いをめぐらす「私がそこに還るまで」、草のエキスを作るために野草を集める都会からやってきた女とそれを見守る男の物語である「山日和」。どの物語の女たちも皆決して自分を偽らないで、自分なりの軸のようなものを持っている気がする。不穏な空気で終わるものもあれば、かすかな希望を抱かせるものもあるから不思議だ。
とりわけわたしが印象的だった「空いっぱいの青いクジャク」の女性は、ひたすらに一人の男性のことを思い続ける。あまりにもひそやかに。そっと。ずっと。あまりにも孤独に生きる彼女のひたむきな生き様に希望を与えているのは、ほんのわずかばかりのやわらかな思い出だけである。それが悲しくて、切なくて、愛おしくて。けれど、光には違いなくて。ただただ、じんとくる。次々とやってくる明日に耐えることを知らない。どうにもできない。そして、きっとそれはどうしようもない。この世界は手の届かないものに満ち溢れていて、やわらかであたたかな光は限られたところにしか射すことを知らない。その厳しい現実を垣間見てきた彼女の生き方、その苦しさはひどく心を打つのだった。
また、表題作の「私がそこに還るまで」も印象深い。冴えない女子高生の少女が一人きりで、お小遣いを使い果たすまで観覧車に乗り続けながら語りはじめる。何かと口うるさい母親のこと、親友と思っていた不登校になってしまった友だちのこと、忙しない日常のこと、自分が抱えている誰にも相談できないこと…などなど。観覧車の上昇と共に、地上にあった自分が剥がされてゆく感じがする少女。そして、運命や力の強弱はおのずと決まっていて、どうしたって変えようがない気がしてしまう。けれど、観覧車もいつかは下降する。失望と安堵感とがいっしょくたになって、彼女を地上へとゆっくり戻してゆく。彼女の還るところ。それはある意味、彼女なりの決意の表れなのかもしれない。
![]() | 私がそこに還るまで 新潮社 2004-10-28 by G-Tools |
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