やがてヒトに与えられた時が満ちて……
感覚、というものを考えるとき、在る、ということがゆらぐ。わたし、という存在もゆらぐ。わたしの周囲にあるものの存在も、ありとあらゆるものものがゆらぎ出す。もちろん、わたし、を司る思考も。そもそも、わたしという概念はどこからくるものなのか。わたしという存在が、なぜ“わたし”と他者を識別できるのか。人を人とたらしめているものとは、何であるのか。あたりまえに身の回りにはびこる“在る”を意識し出してしまうと、際限なく苦悩に満ち満ちてくる。そうして鋭敏に研ぎ澄まされた感覚はとどまることを知らず、外側へ外側へとわたしたちを解放してゆく。“わたし”という存在を超えた、ずっと先の方へと。わたしたちの、知らぬうちに。
そんなことをついぞ思考してしまうほどに、池澤夏樹著、普後均写真『やがてヒトに与えられた時が満ちて……』(角川文庫)を読みながら、ぐらぐらとゆらぐわたしがいた。それは、物語が今いる場所の不確かさ、危うさを問うてきているように感じたからに違いない。誰もがある意味で満たされた生活を送ることができる、いわゆる理想郷に近い植民都市ラグランジュを舞台に展開する物語であるにもかかわらず、である。地球が人の住めない場所になった近未来の設定で、ヒトはCPUネットワークによって均一に管理された閉鎖的な空間の中にいる。過去の記憶を捨て去り、新たな文明の中で生きよ、と。文明は生まれては変化し、やがて消滅するさだめにあるというのに、だ。
そうして物語は、ヒトが自分たちの手の中に進化の装置を持ってしまったゆえに、過ちを犯すさまを描く。その結果、孤立した空間に暮らすヒトの悲しみを哲学的にも問うてくる。その安定と自律は、果たして幸福なのか。人間的である、ということの本当の意味を。そして、死生観までも問う。人間にとって基本的な何かを見失うこと。それは既に、加速の傾向にあるのかもしれない。せっかちに動き回るわたしたちのことだ。この先のことなどわからない。わからないからこそ、わからないことに苦悩して安定と自律を早々と望んでしまうかもしれない。物語が示唆する、ヒトの終末というものを読み進めるうちに、わからないことさえわからなくなってきてしまう有り様のわたしなのだった。
だが、わからない、という感情を持てる喜びを、今わたしは感じている。その、ほどよい圧迫感。じんわりと痛み、震える脳内。速まる鼓動…そういうものがすべて愛しくなるほどに、わたしは、わたしであることに夢中になっていることに気づく。もはやそれは、ホモ・サピエンスとしてのヒトでもなく、人間でもなく、女でもない。あくまでも“わたし”という個体であるのみだ。それも、不確かで曖昧な。けれど、確実に他者と区別できる存在としての。物語のように宇宙を思うとき、こんなにも個を実感するのは、わたしの器の小ささゆえなのかもしれないが、それでも、この愛しさをしっかり抱えて、わたしはわからないものと向き合わねばなるまい。わからないなりに、懸命に。
![]() | やがてヒトに与えられた時が満ちて… (角川文庫 い 58-2) 普後 均 角川書店 2007-11 by G-Tools |
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