2008.05.14

宇宙の片隅で―石垣りん詩集

20070421_031 心を射るような、つんざく言葉がある。生々しい現実を包み隠さない、潔い言葉がある。生きるということに寄り添う、やわらかなまなざしの言葉がある。そうして、そんな言葉たちに寄り添うようにして生きたのが、石垣りんという一人の女性なのかも知れない。だからこそ、読み手の心にすとんと届く。読み継がれてゆく。石垣りん著、伊藤香澄絵、水内喜久雄選・著『宇宙の片隅で―石垣りん詩集』(理論社)。太陽のほとり、挨拶、表札という三部構成からなるこの詩集は、一人の女性として思うところを紡いだ詩、原爆写真に寄せて紡がれた詩、日々の暮らしに密接に関わる詩…と、さまざまな石垣りんを垣間見られる、彼女の入門書として最適な一冊になっている。理論社の「詩と歩こう」シリーズ。

 「くらし」という一編では、喰わずには生きられないわたしたちの宿命を紡いでいる。食べ物だけじゃない。親やきょうだいや、師、金、こころまでも喰わずには生きてこられなかったという切迫した思いは、石垣りんという人の人生の厚みや重みと一緒にずしんと響いてくる。この人は本当の悲しみを、孤独を、生きるという意味を、よく知っているに違いない。だからこそ、こんなにもさらりと重みを紡いでみせるのだろうと。実際「石垣りんさんをたずねて」によれば、五歳で母親を亡くし、その後三人の母親を持った過去があることがわかる。また、空襲を経験していること、一家を支えるために働かねばならなかったことなど、その人生は波瀾に満ちていた。

 「今日もひとりの」では、1つのビルが建つために起こる非情を描く。世の中にまかり通ってしまう“やむを得ない”に異を唱える詩だ。いつしか、“やむを得ない死”がなくなり、命もこころも生かされる日を切実に願う思いが伝わってくる。しかしながら、毎日どこかで誰かが亡くなるというその現実から、わたしたちは逃れられない。それは限りのある命の為せるワザとも言える。日常茶飯事の出来事でもある。だが、日常茶飯事ということの恐ろしさを、わたしたちは忘れてはいけないのだと思う。そして、決して慣れてはいけないものが、この世の中にはあるのだと。正しいものを確かに見極められる目が必要なのだと。そう訴えかけている一編だと思うのである。

4652038461宇宙の片隅で―石垣りん詩集 (詩と歩こう)
石垣 りん 水内 喜久雄
理論社 2004-12

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2008.05.13

夕闇の川のざくろ

20070514_009 ぐるぐると渦巻く嘘の中で思う。わたしはこの嘘の世界がとても好きだと。そうして、嘘の中に埋もれて、いつまでもいつまでも浸っていたいのだと気づく。嘘の世界。それは虚構。あるいは物語。けれど、そこに見え隠れする物事の本質は、わたしの暮らす現実よりもより真に迫ってくるようにも思えるから不思議だ。江國香織著、守屋恵子絵『夕闇の川のざくろ』(ポプラ文庫)に描かれる嘘は、孤独な一人の女性・しおんの姿を浮き彫りにする。“人なんてもともとほんとじゃないのよ”そう言って、次から次へと嘘の物語を紡ぎ出す彼女に振り回される幼馴染みの<私>。読み進めるうちに、<私>同様にいつしかしおんの心に寄り添いたいと思っている。

 しおんはこうも言う。“物語の中にしか真実は存在しないのよ”と。そして、現実なんてちっとも意味がない、とも言うのだ。なぜなら現実は作為的な錯覚にすぎず、人はみな物語に便乗して、知り合いのようなふりをしてうろうろしているから、だと。すべては錯覚。そんなふうに考えることが、どれほど寂しく悲しいことなのか、物語に添えられているしおんの物憂げな表情を見つめるほどに胸をしめつけられる。だが、これこそまさに真実をついている言葉ではないだろうか。誰かを信じるということ。それは、不確かなものを信じようとする意思からはじまる。裏切られて傷つくのは、裏切られないという錯覚が為せるもの。わたしたちは日々たくさんの錯覚の中で生きているのだ。

 また、この物語の魅力は、しおんの語る物語に耳を傾ける<私>もまた、嘘の中に生きている、というところにある。噛みしめるように、繰り返し物語を読んでみると気づくそれは、どうかすると見逃しがちなほどにささやかで淡い小さな嘘だ。この小さな小さな嘘に呑み込まれそうになるとき、この物語にすっぽりと閉じこめられて、わたしはぐるりぐるりと大きな嘘の中に埋もれてゆく。そうしてわたしは現実逃避のように、こうして物語に浸ることの罪悪感も忘れて、そこに深く横たわる真実を見出そうと躍起になる。日常の中に無数にある作為的な錯覚によらない真実を。確かなものとしての真実を。どこかにある本物の真実を一つくらいは手にして、全身全霊で信じてやろうと。

02987270

4591102963夕闇の川のざくろ (ポプラ文庫 え 1-1)
江國 香織 守屋 恵子
ポプラ社 2008-04

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2008.05.11

レモン・ドロップス

20070324_003 ゆらぎ出す日常。変わり始めるわたし。淡々と繰り返しているように思える日々だって、少しずつ変化している。いつだって同じわたしはいない。いつだって同じ誰かもいない。いつだって同じ景色もない。だからこそ、毎日は新鮮な驚きや喜びが潜んでいて、ときどきわたしたちをはらはらさせる。石井睦美著『レモン・ドロップス』(講談社)は、思春期の少女の繊細な心模様を描いている。周囲より一歩引いた視点で物事を考える少女は、変わらない日々を、いつまでもいつまでも過ごすだろうと思っていた。だが、友だちの恋や姉の恋、おじいちゃんとおばあちゃんの深い絆などを目の当たりにして、さまざまな恋のかたちや相手を大切に思う気持ちを知ってゆく。

 “結局、思春期ってのがいけないんだと思う”そんなふうに言い合う美希と友だちの綾音。どうかすると爆発してしまいそうな心を抱えて、美希は三日月形のレモン・ドロップを安定剤にしている。べたべたしたやさしさが苦手な美希は綾音に“冷たい”と言われることしばしば。だが、彼女のクールだけれど上っ面のことを言わないところは、何だかとても凛々しくあたたかく思える。物語の中では、そんな美希とは対照的な存在として姉が登場する。この姉の恋や友人の綾音の恋に振り回されながら、同時に人を好きになることに対する思いを高めてゆくのだ。嗚呼、恋って、人を好きになるって、とても素敵なことなのだなぁ…と深く深く思わせる展開だ。

 美希のおじいちゃんとおばあちゃんの関係も、この物語の魅力を語る上でははずせない。古い蓄音機から流れる音楽に合わせて、美希のおじいちゃんとおばあちゃんは踊るのだ。古いレコードを聴くときは、心をすませて一心に聴く。聞こえないもの音まで聴き、見えない人たちが踊るのまで見るようにして。二人は寄り添うように、まるで二人で一人みたいに、深い絆で結ばれている。死ぬまで好きでいられる人。死ぬまで好きでいてくれる人。美希がそういう言葉で真っ先に二人のことを連想したのは、言うまでもない。誰かが誰かを強く思うこと。それは簡単なようでとても難しい。でも、感傷的になったってしかたがないのさ。美希のようにそうつぶやいてみる。

4062123371レモン・ドロップス
石井 睦美
講談社 2004-05

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2008.05.09

ヨハネスブルクへの旅

20070421_004 学ぼうとしなければ知り得ないことが、この世界にはあふれている。もちろん、知りたくても知り得ないこともあふれている。知らなければならない、目を背けてはいけない事柄はたくさんあるのに、ちっぽけなわたしはその多くを知らないまま日々をのらりくらりと生きてしまっているような気がする。ビヴァリー・ナイヴァー作、もりうちすみこ訳、橋本礼奈画『ヨハネスブルクへの旅』(さ・え・ら書房)に描かれるアパルトヘイト体制下の南アフリカの暮らしもまた、そんな学ぼうとしなければ知り得ないことの一つだろう。時が流れてもなお、拭い去ることのできない世界史における悲劇の傷跡は、そこに暮らす人々の中に深く刻まれているに違いない。

 物語の舞台は、アパルトヘイト(人種隔離政策)下の南アフリカ共和国。重い病気にかかった赤ん坊の妹を助けるために、姉のナレディと弟のティロは三百キロも離れたヨハネスブルクへ、住み込みで働く母親を連れに行こうと決意する。それまで黒人居留地の中での生活しか知らずにいた二人は、旅の途中でさまざまな人と出会い、社会に満ちる矛盾や差別をはじめとする問題と直面してゆく。なぜ、両親と離れて暮らさなければならないのか。なぜ、パスを常に持ち歩かなければならない人々がいるのか。なぜ、黒人と白人で乗るバスが違うのか……など尽きることのない疑問。やがてナレディたちは、グレースと知り合い、“自由”を求めてデモを起こした子どもたちの悲劇を知るのである。

 訳者のあとがきには、読者である少女の言葉がこう記されている。“わたしたち子どもだって、この世界でおこっている本当のことを学びたい。どうしてそれを制限するのでしょう? わたしたちが早く知れば知るほど、わたしたちは知性的な強い人間になる。それが、この世界を平和にする方法なのに”と。人として当然のはずの営み、権利。それすらも奪われていた人々の声に耳を傾けること。アパルトヘイトに限らず過去の過ちを知ることで、わたしたちは何かを得ることができる。何かが変わり始める。それはささやかなものかもしれない。けれど、一人が知ることによって「知る」は広がり始めるのだ。そうしていつしか大きな「知る」となり、本当の平和というのがいつか訪れるかも知れない。

4378014777ヨハネスブルクへの旅
ビヴァリー・ナイドゥー もりうち すみこ 橋本 礼奈
さ・え・ら書房 2008-04

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2008.05.08

天の鹿

20070409_010 気がつけば、あちら側へ足をとられている。淡くも儚いその魅惑的な世界は、おいでおいでと手招きするのだ。あちらとこちら。その境界に立つことは、危険ながらやみつきになる。どうかすると、もう戻れなくなるかも知れない。そんな思いを抱きつつも、許される限りに浸りきりたいわたしがいる。安房直子の描く独特のそんな世界は、安房直子作、スズキコージ絵『天の鹿』(ブッキング)でも耽読できる。危うい幻想的な世界に浸らせながらも、人間の持つ愚かしさと本当の心の優しさとは何であるか、いかにして魂は救済されるかを教えてくれる、寓話的な要素も兼ね備えたこの作品は、彼岸と此岸、地と天、闇と光の世界といった対照的なあちらとこちらを描いている。

 物語は、鹿狩りの猟師である清十さんが、ある一匹の牡鹿に遭遇するところから始まる。“通してくれ。かわりに、たくさんのお礼をしよう”声に従うままに、鹿の背に乗って険しい山々を越えてたどり着いた鹿の市で、清十さんは見たこともないような煌びやかな品々を目にする。けれど、鹿のくれた金貨一枚で買えるのは、たった一品だった。その後、話を聞かされていた清十さんの三人の娘たちは一人ずつ、不思議な牡鹿に連れられて鹿の市で買い物をすることになる。実はこの牡鹿、かつて清十さんに仕留められた鹿であり、天に昇ることができずに闇夜をさまよい続けており、その肝を食べて命を救われた清十さんの娘のことをずっと探していたのだった。

 牡鹿は人間たちの業や欲深さに対して憎しみを抱くわけでもなく、天にも地にもどちらにも行けない自分の道を、懸命に探す。そうして、ただただ末娘の優しさに心を打たれる。目の前の自分の欲望にかまけるのではなく、誰かのことを思いやる。あたりまえのことながらなかなかできないそれを、さらっとやってのけた末娘は、あちら側へと足を踏み入れた途端に、すべてを悟ったのかも知れない。これから先の自分の運命。牡鹿の苦しみ、悲しみ。そういったものをすべてまるごと受け入れて、やわらかに牡鹿を思ったのだろう。この物語に満ちる悲しみは、やがて昇華するように優しさへと変化する。それは、同時に物語に触れたわたしたちの変化なのかも知れない。

4835442334天の鹿―童話
安房 直子 スズキ コージ
ブッキング 2006-04

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2008.05.05

風花

20070421_014 考えるべきことは先送りに。時ばかりを早送りに。そうやって曖昧な状況に安住するわたしがいる。どうしたって日々は過ぎてゆく。そのことに甘えるように。ずっと続いてゆくから。たぶん、この先も。けれど、そのままでいいわけじゃない。そのまま過ぎてゆくはずもないのに、今と向き合うことができない。わたしと向き合うことができない。誰かと向き合うことなどできるはずもない。川上弘美著『風花』(集英社)の主人公・のゆりもまた、そんなふうにして生きる一人だ。夫から離婚をほのめかされてもなお、どうしたらいいのかわからず、考えることから逃げ続ける日々。それでもゆっくりではあるけれど、自分と向き合い、夫と向き合い、その思いを確かにしてゆく様が印象的。

 のゆり、33歳。結婚して7年。夫婦間にあるのは、どこか空虚なざわめきばかりだ。会話らしい会話もなく、危うすぎるすれ違いの生活。そんな時知った夫の浮気。けれど、それを知ったところで言葉の出ない、のゆり。自分とも、夫とも、今置かれている状況とも、なかなか向き合えずにいる。そんな彼女の曖昧な態度は、何となく日々を生きてしまっている現代人を象徴しているようで、読んでいてぎくりとなる。何も考えずに毎日を生きることなどできないけれど、それでも難なく時は流れてしまうから、のほほんとついその流れに身を委ねてしまうわたしたちみたいなのだ。どこまでも他力本願の狡さが見え隠れするあたりに、のゆりという人物の妙なくらいの人間っぽさを感じたわたしだ。

 それでも、のゆりとその夫・卓哉は互いから目を背けずに、少しずつではあるけれど、向き合うようになってゆく。じれったいまでに不器用で、どうかすると振り出しに戻ってしまいそうになる二人の関係性は、現代社会の夫婦というものが、いかに脆く危うい状態にあるのかを考えさせられる。共に暮らしていようとも、近しいようで遠い“夫婦”というものについて、身を以て知らないわたしには、計り知れない部分がたくさんたくさんあるに違いない。けれど、夫婦というものがよくわからないからこそ、主人公・のゆりの思いに寄り添うわたしは、彼女のゆっくりとした人としての成長が、心地よかったのだった。時はめぐり、わたしもめぐる。そうして、彼女の決意を胸にしまう。

 ◎トラックバックさせていただいた記事
  粋な提案 by 藍色さん

4087712079風花
川上 弘美
集英社 2008-04-02

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2008.05.02

転身

20070421_036 息をするように。流れるように。何事にもいつかは慣れてゆく。だからゆうらりと身を委ねて、次々と訪れる転機に身も心もあずけてゆく。まるで擬態のごとくかたちを変え、その色に染まる。ああ、この人と生きてきたような気がする。そうして目の前にいる人を好きになる。好きにならずにはいられない。無意識のうちに変化を遂げてゆく一人の女性の物語、蜂飼耳著『転身』(集英社)。バイト先の友人に誘われるまま北の島へ来た琉々(るる)は、マリモを売る仕事を手伝うことになる。女であることに飽きた頃に身籠もり、やがて湖の畔で木彫りをする人たちの生活に馴染んでゆく。忙しなく身を変え、出会い別れ、また出会う様は、どこか神秘的で夢を見ているような心地にさえなる。

 この物語の主人公・琉々。実に淡々と生きている。決して感情的にならず、何事も流れにまかせる。漂うように、ゆらりゆらりと生きているのだ。だからバイト先の友人(といってもよくは知らない)が突然いなくなっても、いなくなった事実だけを受け入れる。たくさんの思いが胸の中を渦巻こうが、必要最小限のことしか口にしない。いや、むしろ大切なことすら呑み込んでしまっている。何度も何度も言葉を呑み、圧倒的に足りない言葉の中で築かれる人間関係は、はたして深いものであるのかわからない。けれど、曖昧ながらただはっきりとわかるのは、目の前にあるものをまるごと受け止めるという、言葉で多くを語るよりも態度で示す、その根源的なコミュニケーションだ。

 だからこそ、目の前にいる人をするりと好きになり、愛するようになる。共に暮らせば、ずっと以前からその人と生きてきたような心地になる。相手のことを何も知らなくても、自然とそんな感情がわき出てくる。そして、そこに横たわる繋がりを思ってみたりする。流れるままに流される。けれど、ただ流されるのではない。心をひらいて。できるかぎりニュートラルな状態で。呑み込んだ言葉の数だけ、誰かと結ばれるようにと。息をするように。流れるように。わたしたちはもっと身を委ねるべきなのかも知れない。目の前にあるものをまるごと受け入れる強さと、それとそつなく付き合える器用さで。息をするように。流れるように。あるがままに。ゆうらり、ゆうらりと。

4087712184転身
蜂飼 耳
集英社 2008-04-02

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2008.05.01

いまにもうるおっていく陣地

20070428_022 言葉をかきわけてゆく快感にはたと気づく。文字の波間。その連なりに、骨の髄までひたひたと染み入ってくる。容易にはわからないからこそ何度も噛みしめる言葉があり、容易に理解できてしまうからこそあっさりと流れてゆく言葉がある。そうして、いつしか脳裏に浮かんでくる光景は言葉という制限をこえて、伸びやかなまでにわたしたちを導く。蜂飼耳著『いまにもうるおっていく陣地』(紫陽社)。独特の豊かなリズムで紡がれる、著者ならではの詩15篇を収録した一冊である。古典の文語体と現代の口語体を自由に行き交うスタイルは、中原中也賞を受賞したこの第一詩集から既に完成されており、その言葉のセンスにたびたびはっと息を呑む。

 タイトルになっている「いまにもうるおっていく陣地」。ためらいつつも夏草に覆われた廃屋に足を踏み入れ、流しの水が出たままになっているのを目にする。ひねってもなお、いっこうに締まらない(湧き水から引いている)蛇口。水際にあるこの家が、植物によって侵食されているのを目にする。そこで感じるのは、朽ちても確かに残る人の息づかいと植物の息づかい。その共生だろうか。だが、それをひたひたと感じている観察者に対して、連れの彼女は大胆にも残る息づかいを踏みしめてしまう。そして、この廃屋の陣地なるものがそうした行為によって、何らかの変化をきたしてゆくのだ。それが何だかとても親しみ深いことのように思えて、わたしはほっと安堵した。

 「たこ」という一篇では、霧雨をさけて店内でコーヒーを飲む二人が描き出される。コーヒーカップを上げ下げする行為が繰り返され、うわのそらなのか気まずい雰囲気なのか、長い時間が経過してゆく。二人の間には相容れない領域なるものがあるのかもしれない。いや、それは今に始まったものではなく、もっと根源的なものなのかもしれない。二人という関係性の在り方を思うとき、さまざまに思いめぐらすわたし自身の過去や現在と何かがシンクロして、不思議な心地に包まれる。この一篇では、コーヒーカップが骨壺と表現されているあたりが何ともおかしく、もしかしたらデートなのか。それも緊張の初デートなのか…などといらぬ妄想を掻き立てるのだった。

01704181

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2008.04.28

平成大家族

20070428_009 すれ違い、すれ違う。近しいようで意外と遠い、家族という存在。よくよく知っているようで知らない。だからといって訊きたくても訊けない、その内情。家族だけれど、家族だからこそ思いは届かず、差し伸べた手は空回りすることだって少なくない。例えば一つ屋根の下に暮らしているということに安堵して、例えば血のつながりに甘えて、まるごとすっかり解り合えた気になること、しばしば。言葉にしなくちゃ伝わらないことは山ほどあるのに、どうかするとそれ以外のものに頼りっぱなし。案外厄介なモノ、家族。中島京子著『平成大家族』(集英社)は、そんな家族のあり様を現代社会の抱える問題と共に描き出す4世帯家族の連作小説集である。

 定職に就かず家にひきこもったままの長男・克郎という存在や要介護のタケを抱えつつも、穏やかだった緋田家。当主の龍太郎は妻・春子と悠々自適な隠居生活を楽しむはずだったが、長女の逸子の夫・聡介の事業が失敗したのを機に同居を申し込まれる。また、嫁いだはずの次女・友恵も離婚し、いつのまにやら身籠もって転がり込んでくる。逸子の息子を含め、合計8人(のちに9人へ)となった家族は、それぞれにさまざまな思いをめぐらせながら、日々を切々と生きている。家族が代わる代わる語ってゆく物語ひとつひとつのエピソードは大問題なのにもかかわらず、何だか妙にほろりときて、読み終えた頃にはいつしか登場人物一人一人が愛おしく思えてくるから不思議である。

 中でも、長男・克郎にスポットをあてた「ネガティブ・インディケータ」「冬眠明け」の外面的・内面的動きは印象的で、確かに一歩を踏み出した一人の人間の奇跡を見た気がした。読んでいる方も、嗚呼春だなぁ。まさに冬眠明けだよなぁと、にんまりと嬉しくなる展開なのである。また、春子にスポットをあてた「カラスとサギ」の淡い熟年層のゆれる思いにもぐぐっとくる。もう若くないのにもかかわらず、親の介護に子どもたちの心配まで抱え、なおかつ夫に振り回され…そんな忙しない心にほんの一時、あたたかな手が差し伸べられる物語である。こんな一編を読むと、母は強しと改めて思うわたしだ。すれ違い、すれ違う家族を支えるのは、きっとこういう存在に違いない、なんて思う。

4087712036平成大家族
中島 京子
集英社 2008-02-05

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2008.04.24

ほんたにちゃん

20070416_025 ひりつく脳内を抱えながら、ふと“わたし”という在り方について考えてみる。どうかすると過剰なまでに反応する自意識に、我ながら恥ずかしさを覚えつつ、それでも一生つき合うしかないわたしという存在を、自分自身でただただ抱きしめてやる。本谷有希子著『ほんたにちゃん』(太田出版)に描かれる、ひりひりと痛いまでの自意識過剰な勘違いの数々は、もはやある意味あっぱれといった感じである。もう何というべきか、読み手はその饒舌過ぎる語りに対して、もうもう苦笑するしかないのだ。この作品が著者の原点と言うべきもので、執筆当時19歳の自伝的処女小説のセルフリメイクとなれば、ミーハーなわたしは飛びつくしかなかった。恐るべし、本谷有希子!

 90年代の東京。カッコイイ自分が好き。自分は特別な人間。そんなふうに思ってきた<私>ことほんたにちゃんは、自分の痛さを重々承知している。けれど、今さらそれを変えることもできずにいた。ある日、通っている専門学校の飲み会で、ほんたにちゃんはカリスマ的存在のイラストレーター・野次と出会う。何となく(本当はかなりびんびんに意識して)飲み直すことになる二人だったが、それがほんたにちゃんと野次との戦いのはじまりとなるのである。と言っても、ほんたにちゃんにとって戦いなだけで、野次にとっては戦いでも何でもないはずなのだけれど…。ほんたにちゃんの過剰なまでの自意識は、様々に自分を演出することに夢中である。嗚呼、苦笑。

 “あなたが思うほど、他人はあなたのことを気にしない”ほんたにちゃんほどではないにしても、こんなことを言われた経験のあるわたしとしたら、何だか憎めないキャラクターのほんたにちゃんである。ほんたにちゃんの思考回路や言動を読むほどに、まるで自分の内面の奥深くに眠っている自意識がむくむくと目覚めた気がする。もしかして、一番痛いのはほんたにちゃんじゃなくてわたし自身かも知れない、と。そうしていつしかひりひりとひりつく思いを胸に、自分自身の在り方を考え込んでしまったわけである。決して文学的ではない作品に対して、ここまで頭を抱え込むことになろうとは…。いやはや、毎度のことながら驚くばかりでございます。本谷さん!

 ◎トラックバックさせていただいた記事
  juri+cari by juri-cariさん

4778311167ほんたにちゃん (本人本 3) (本人本 3)
本谷有希子 okama
太田出版 2008-03-20

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«壜の中の鳥