2009.07.07

カナリア王子 イタリアのむかしばなし

20090624_016 イタリアは“民話の宝庫”と呼ばれているらしい。そんなイタリア全土を旅しながら民話を収集して再話した、イタリアを代表する作家イタロ・カルヴィーノ。200もの民話の中から、恐ろしくも美しくもある7つのお話を収録したのが、イタロ・カルヴィーノ再話、安藤美紀夫訳、安野光雅画による『カナリア王子 イタリアのむかしばなし』(福音館文庫)。本書では、表題作「カナリア王子」と「とりごやの中の王子さま」、「太陽のむすめ」、「金のたまごをうむカニ」、「ナシといっしょに売られた子」、「サルの宮殿」、「リオンブルーノ」という、選りすぐりの7つお話が楽しめる。とりわけ安野光雅による画が、シュールで奇想的なお話の展開に豊かな彩りを持たせ、とても贅沢な気持ちになる。

 表題作「カナリア王子」では、継母の陰謀によって森の城の塔に閉じ込められてしまった姫と、森の向こうを通りがかったとき姫をみそめた王子の話である。囚われの姫と姫に恋する王子ふたりの身振り手振りのやりとりに見かねた魔法使いが、魔力を持つ古本を与えて、ふたりの仲を取り持ってくれる。魔法のページを前からめくると王子がカナリアに変わり、後ろからめくるとカナリアから人に変わるという。けれど、そこはお話のお約束とも言うべきか、姫の継母が悪巧みをしかけてくるのである。人が鳥へ、鳥からひとへ…という、美しいイメージだけでは終わらない、魅力的なお話。ストーリー展開が素朴で設定が大雑把なところもまた、民話らしい味わい深さを感じる気がする。

 他に印象的だったのは、「太陽のむすめ」。こちらでは、ある王と王女が長い間の念願だった姫を授かることになるのだが、その姫が20歳のとき“太陽のむすめ”を生むことになるだろうと星占い師に予言される。心配になった両親は塔に閉じ込めるものの、予言どおりになってしまうのだった。王の怒りを恐れた乳母は、太陽のむすめを畑に置き去りにして、そのむすめはやがて、通りかかった他国の王によって息子と一緒に育てられることに。その後、むすめは宮殿から追い出されるものの、太陽のむすめにふさわしい超人的な力を発揮して、自分の望みを叶えるというお話。太陽のむすめと王子の花嫁との知恵比べというか、女のプライドをかけた競い合いが残酷ながら面白く読めるお話だ。

 その他の「とりごやの中の王子さま」「金のたまごをうむカニ」「ナシといっしょに売られた子」「サルの宮殿」「リオンブルーノ」もそれぞれに味わい深い。設定がバラエティ豊かで、厭きさせずにぐいぐい読ませるのだ。魔女や魔法が、人と共にあたり前に存在する世界にもとても惹かれるし、機転を利かせて大らかさとほんの少しの運で幸せをつかむ人たちにも好感が持てる。これがイタリア人の気質や文化なのだろうか…と思うと、とても感慨深いものがある。また、ほんのり毒を含ませながら強引に展開してゆく物語を、読み手にまるごと受け入れさせる力があると思う。明るい語り口がそうさせるのか。それとも、長い間語り継がれてきた重みなのか。むかしばなしはなかなか侮れない。

4834023885カナリア王子―イタリアのむかしばなし (福音館文庫)
安野 光雅 Italo Calvino 安藤 美紀夫
福音館書店 2008-10

by G-Tools

人気ブログランキングへ
本ブログ 書評・レビュー←宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.07.05

ゴールド・フィッシュ

20090627_012 中学時代に思い描いていた夢はなんだったろうとふと思い返す。妙に現実を直視していたわたしは、さっさと自分の限界に見切りをつけて、夢見ることを忘れていたのではなかったか。夢破れた14の夏。人生を切り替えた15の春。けれど、また挫折してなあなあに迎えてしまった高校時代…。思えば夢のない人生を歩んできたものだ。森絵都著『ゴールド・フィッシュ』(角川文庫)には、小さな頃からずっと理想の従兄の真ちゃんの夢を自分の夢のように大切にしているさゆきが主人公。さゆきの中で膨らんでゆく真ちゃんの夢。けれど、自分の夢は自分自身で見つけなければならないことを知ってゆくのだ。『リズム』の続編でもあるこの物語。さゆきは中学3年生の受験生という、難しい年頃になっている。

 中学3年になったさゆきは、高校受験を控えているにもかかわらず、ゆらいでいた。大好きな従兄の真ちゃんが音楽の道で成功しようと夢見て東京へ行った前作『リズム』。そして、前作ではいじめられっこだったテツがめっきり大人びて、さゆきよりも先に明確に自分の進むべき道を見つけているからだ。周囲の友だちも志望校を決めたり、受験勉強に打ち込んだりしているのにもかかわらず、まだやりたいことや夢が見つからないさゆきはいろんなことが手につかず、真ちゃんの夢を応援することを自分の夢のように思っていた。けれど、真ちゃんが行方知れずになり、バンドが解散したことなどを知ることになる。果たしてさゆきは自分のリズムを取り戻し、夢を見つけることができるのか…そんな物語。

 中学3年のときは、たくさん迷ってたくさん悩んで、自分と向き合う時期のような気がする。もちろん、大人になってからもたくさん迷うことも悩むこともあるだろう。けれど、無限の可能性を秘めた若い時を充実して過ごして欲しいと、ついついさゆきを応援しながら読んでしまっていた。真ちゃんのこととなると無我夢中になってしまうさゆきをたしなめるように支える同級生の幼馴染みのテツや真ちゃんのお兄さん、妹をあたたかく見守るさゆきの姉、そして時には厳しいことを言ってくれる大人がいること。さゆきの周囲は、多くの人たちによって成り立っている。そのことが、何とも微笑ましくもあり、羨ましくもある。そうして新たに気づいてゆく。ゆっくりと、さゆきなりのスローペースで。

 大人になると、どこかにおき忘れがちな夢。そして、夢は自分でつくるものであること。自分でつかまえるものであることを。大それた夢でなくてもいい。小さなささやかな夢でもいいから、夢見る気持ちを忘れてはいけないという、強いメッセージを感じる物語である。まだ15歳。人生はまだまだ長いのだ。だから、物語のおしまいでさゆきが選んだ選択に思わず、ふふっと笑みがこぼれる。そうだ。その調子。さゆきらしくていいじゃないか、と思わずにはいられないのだ。夢の見えてくる場所までたどりつけるまで、いろんな経験をして、いっぱい悩んで、思いきり泣いて、迷うだけ迷えばいい。寄り道だってしたっていいのだ。きっといつか、どの時間も無駄じゃなかったと思える日が訪れるのだから。

4043791070ゴールド・フィッシュ (角川文庫)
森 絵都
角川書店(角川グループパブリッシング) 2009-06-25

by G-Tools

人気ブログランキングへ
本ブログ 書評・レビュー←宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.07.04

リズム

20090326_010 わたしにかまわずに時は刻々と流れるように進み、物事は確実に変化を見せる。そんな中でどうやったら、しゃんと自分を保っていられるだろう。ゆらぐのはきっと、子どもも大人も変わらない。時はいつだって、わたしたちにかまわずに過ぎゆくものなのだから。森絵都著『リズム』(角川文庫)は、中学1年生のさゆきが主人公の物語。風みたいに、空みたいに、月みたいに、どこにいても、いつになっても、何が起こっても変わらないものが好きな一人の少女の成長を綴っている。どんなにくだらないことも煌くような十代の時。一番多感な時。そういう時を慈しむように新たな一歩を、確かな一歩を踏み出す。そして、どんなに周囲が変わろうとも、自分だけのリズムを大切にしていればよいことを知るのだ。

 さゆきには、第二の我が家と呼べるほどの親戚の家がある。そして、その家には小さな頃から慕っている従兄の真ちゃんという存在がいる。高校にも行かず、バンド活動をしている金髪の真ちゃんだが、さゆきにとっては今も昔と変わらず大好きな理想のお兄ちゃん像である。ある時、真ちゃんの両親が離婚してばらばらになるかもしれないことを知り、日々悶々と悩み続ける。ずっとそこに変わらずにいてくれる、変わらないものが好きなさゆきにとって、これはとても重要なこと。ただただ毎晩のように祈るばかりだ。そんなさゆきが、いかにして変化を受け入れてゆくのかを、物語はゆっくりとさゆきのペースで追ってゆく。ゆらぐ13歳の気持ちは、大人になったわたしにも不思議とよく馴染む。

 物語の登場人物で魅力的なのは、何といってもさゆきの担任の三木先生。まだまだ新米の先生らしいが、中学生の気持ちを汲み取るさゆきのよき理解者である。年中悩みこんでぼうっとしているさゆきをしょっちゅう呼び出すものの、特別叱るわけでもなく、あたたかなまなざしで接してくれる。さゆきを見ているとハラハラする先生は、まるで自分の中学時代を重ね合わせるように言う、“それでも、あれが不毛な時間だったとは思わないわ”と。そう、きっと悶々と悩むとことも、変化に戸惑うことも…いろんなこと何もかもが愛おしい大切な時間。ゆらいだ分だけ答えがあって、道筋があって、すうっと自分なりの道しるべができてゆく。そうしてたどり着いた先に立っている自分を、今誇らしく思いたい。

 そして、クライマックスの真ちゃんとの最後の場面は、なんだかじーんとせつない。ロック歌手を夢見るしんちゃんが、さゆきにドラムスティックを渡すのだ。そして言う、自分だけのリズムを大切にしていれば、まわりがどんなに変わっても、さゆきはさゆきのままでいられるかもしれない、と。いい言葉だなと素直に思う。つまりは、どんなに周囲が変わろうとも、自分だけのリズムを大切にしていればよいと。わたしたちにかまわずに時は刻々と流れるように進み、物事は確実に変化を見せる。そんな中でしゃんと自分を保って生きるためのひとつの手段が、さゆきにはできたのだ。大人になってもゆらぐことの多い世の中。その中を生き抜くために、彼女は今後どう成長するのだろう。楽しみである。

4043791062リズム (角川文庫)
森 絵都
角川書店(角川グループパブリッシング) 2009-06-25

by G-Tools

人気ブログランキングへ
本ブログ 書評・レビュー←宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.07.03

ぶたばあちゃん

20090627_032 いつか必ず訪れる死。その逃れられない死を冷静に受け止めることはとても困難だ。けれど、悔いなく最期を穏やかに迎えるためには、冷静さは重要だ。自分の潮時を予感して、一番いい方法でこの世とさよならする。この世に生きる人とさよならする。そうできたら、どんなにいいだろう。マーガレット・ワイルド文、ロン・ブルックス絵、今村葦子訳『ぶたばあちゃん』(あすなろ書房)には、あるひとつの死の受け入れ方が描かれている。淡々とした語り口ながら、悲しみを必死に押し殺したふたりの一番いい方法での別れは、読み終えてもいつまでも胸の奥にじんと響いてくる。水彩画のやわらかな淡いタッチの絵と共に綴られる、ぶたばあちゃんと孫むすめの日々のやさしいさよならの物語である。

 ぶたばあちゃんと孫むすめは、ずっと長い間一緒に暮らしてきた。ふたりにはふたりならではの生活があって、役割分担があって、つつましやかに暮らしている。孫むすめが朝ごはんを作り、ぶたばあちゃんが昼ごはんを作る。そして、晩ごはんは一緒にしたくをするのだ。けれど、ある朝のこと、ぶたばあちゃんは普段どおりに起きてこず、孫むすめが朝ごはんを運んできたときも、眠り続けた。昼ごはんのときも。晩ごはんのときも。そうして、次の朝になると、ぶたばあちゃんはまだ回復していないのにもかかわらず、こう言う。“今日は、忙しくなるよ。わたしはしたくをするんだからね”と。何のしたくをするのか孫むすめに説明もなければ、細かなことは何にも言わないぶたばあちゃん。

 でも、いつも寄り添うようにして生きてきたふたりだから、互いに別れが近いことを察してしまう。孫むすめは、ぐっと悲しみをこらえて、ぶたばあちゃんの最後の散歩にゆっくりと付き合う。ふたり一緒に見る様々もの、景色が、やわらかにふたりを包み込むように美しくきらめく。多くの言葉がなくても伝わる思いがあること。それは、ふたりの絆の深さを物語っているようでもある。だからこそ、別れは悲しい。だからこそ、あたたかに胸に響く。ぶたばあちゃんは、最後の最後まで生きることと愛すること、与えること、受け入れること…そういったことを、生き様を通して教えてくれる。ふたりの優しい笑顔はまさに生の喜び。そして、最後の日のあっという間の時間はかけがえのないもの。

 ずっしりと重たいテーマを扱った物語。でもブタというキャラクターの愛らしさが、ほんのりと明るく物語を照らす。何よりも印象的なのは、自分の最期の日を予期したぶたばあちゃんの行動力と潔さ。なんて魅力的に描かれているのだろうと思う。そして同時に、人間はうじうじしていてこんなふうにさっぱりと死を受け入れられないだろうなぁなどと思ってしまう。ふたりの生き方を通して見えてくるのは、いつか訪れる死に対して、別れというものに対して、冷静であれ、ということだ。そうして思う存分、悔いなく生きよ、ということ。あたり前に周囲にあるもの、人々…そういったものを慈しみながら、日々を生きよ、ということ。きっと今この瞬間だって、かけがえのないものなのだから。


ぶたばあちゃん

  • マーガレット・ワイルド文/ロン・ブルックス絵/今村 葦子訳
  • あすなろ書房
  • 1575円
Amazonで購入
書評/児童

人気ブログランキングへ
本ブログ 書評・レビュー←宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.07.02

ゆずゆずり

20090627_010 日常をゆうるり生きるコツのようなものは、なりゆきまかせであれこれ悩まずに、訪れることをまるごと受け入れてゆくことなのかもしれない。そして、きっちり計算するのでもなくて、なんとなくぐらいの気持ちで余裕を持っているほうがいいのかもしれない。そうして生まれた隙間は一瞬一瞬を豊かにし、物事を楽しむことを見つける助けとなる。東直子著『ゆずゆずり』(集英社)は、そんなことを思わせてくれる一冊である。物語のようなエッセイのようなその曖昧さの中で展開される日常は、どこか非日常的でありながら人を慈しむ気持ちや懐かしい気持ちを呼び起こし、今生きているこの瞬間を愛おしく思わせる。同じ日常は二度と訪れない。そのあたり前のことをふと忘れている自分に気づくのだ。

 文筆業のシワスという女性の何気ない日常を綴る18編が収録されているこの本では、生まれ月にちなんで、他にイチ、サツキ、ナナと呼び合う同居人たちが登場する。シワスたちは“元の家”から人工都市の“仮住まい”のマンションの一室に移ってきて、ようやく馴染み始めたところだったが、やがてそこを出て“新しい家”へ引っ越してゆくことになる。新しい家を決めるまでの葛藤、決めてからのためらい、引っ越し前後の慌しさの中で、人が生き、日々の生活を営むことについて思いを馳せる。仮の家に移ったからこそわかる、家というもののあり方や、蘇ってくる懐かしい家の記憶…などなどシワスの頭の中は実際に起こった出来事だけでなく、過去の記憶や妄想とあいまって様々に膨らむから面白い。

 一見、誰にでもあるような、なんということもない、なんとなくな日常だが、読んでいてときどきはっとするような場面にあちこちで遭遇する。仮の家で君子欄が咲いたのを見て、冬の寒さを感じなければ、花は咲かないと思う。お腹がすかなければ、食べ物はおいしくないと思う。貧乏を経験しなければ、お金のありがたみが分からないと思う。淋しさを知らなければ、賑やかさがうれしくないと思う。ふられたことがなければ、恋の成就で涙が出ないと思う。何事も花が咲くカラクリと同様に、相反する部分に意味を宿していると考えるのだ。ただ花が咲いただけで、物事を飛躍させるシワス。些細なことから不思議な方向へと思考をめぐらせるあたりがユニークである。ときには暴走だってしてしまう。

 また、読み手を面白いとも可笑しいとも思わせるのは、そこに穏やかな優しさが感じられるからなのかもしれない。同じ人間という生き物としての共感、何よりも人への慈しみ…そういたものに溢れているからなのかもしれない。けれど、その思いも全く同じものが再び訪れることはない。再度、この本を開いたときに違う部分に共感を呼ぶのと同様に、そのときそのとき、今という瞬間がかけがえのないときなのだと思い知らされる。シワスの思考が過去の思い出や空想へと広がるとき、人間が生きてゆく上での楽しさや豊かさは実体験だけではないのだとも教えてくれる。失った数々のものたちを思ってほんのり悲しくなるのは、戻らない日々があるという現実だ。だからこそ、一瞬一瞬が愛おしくなる。

4087712842ゆずゆずり
東 直子
集英社 2009-03

by G-Tools

 ≪東直子の本に関する過去記事≫
 ・『薬屋のタバサ』(2009-06-05)
 ・『とりつくしま』(2009-06-29)


人気ブログランキングへ
本ブログ 書評・レビュー←宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.06.29

とりつくしま

20090627_024 この世を去るということ。つまりは死んでしまうこと。それには数多くの未練や複雑に絡み合う感情が渦巻いている。心残りに思うことは、きっと少なからず誰しもあるのだろう。自分が唐突にいなくなった世界を、少しばかり見てみたい思いだってあるに違いない。残してきた家族、愛する人がどんなふうにその後を暮らすのか。覗き見てみたい気持ちもほんのりあるに違いない。東直子著『とりつくしま』(筑摩書房)は、そんな後悔や心残りのある死んだ人、いわゆるとりつくしまもなく、為すすべをなくした人々に“とりつくしま係”さんが、そっと問いかけるように語りかけて、“とりつくもの”に戻してくれる、という設定の連作短編集。切なくてほろほろきて、じんと胸の奥に響く物語たちである。

 “とりつくもの”といっても、生きている魂のあるものはダメだ。モノにだけとりつくことができる。だからモノとりつくことになる死んでしまった登場人物たちは、大切な家族や愛する人、好きな人などの近くのモノにとりつくことになる。ときには大事にされて、ときには邪険にされて、それでもやがてはあの世に向かってゆっくりと進むしかない。いつまでもとりつくモノでいられるわけではない厳しい現実が待っている。野球のロージン、トリケラトプスのマグカップ、青いジャングルジム、白檀の扇子、名札、日記、マッサージ器、リップクリーム、カメラ、補聴器…と、死んだ人はいろいろなものになる。それぞれに思いを込めて。そこには生きるということの刹那を実感させるドラマがある。

 中でも一番はじめに収録されている「ロージン」の母親は、何とも潔くていい。14歳の息子を残して死んでしまった母親が、野球の試合で使うロージンという、ピッチャーが投げる前に手につける白い粉にとりつく物語だ。粉は試合が進めば進むほどに少しずつなくなってゆく。それでも、ほんの少しでも息子の傍にいることを切望するのだ。消耗品として、もう少しだけ一緒にいたいと。長く一緒にいると、余計に辛い思いをするからと。逝くということを真摯に受け止め、別れを決意するその姿は、母親としても、一人の人間としてもさっぱりしていて気持ちよい。母親としての最後の役目を終えてからさよならする。自分の心を整理する。悲しいことに変わりないけれど、こんなふうに締めくくれたら理想だ。

 また「白檀」も印象深い。16歳にして白檀の香りを放つ書家の先生に魅せられた桃子が、ひたすらに先生を慕い続ける物語だ。弟子にまで上りつめて傍にい続けようと思っていた矢先の死。そして、先生に贈った扇子にとりつくことになるのである。夏が来るたびに先生とふれあえる。それだけでいい、と。静かにひたひたと綴られる桃子の切ない思いは、どこまでも美しく繊細な物語になっている。ひそやかに、さりげなく、尽くすという一人の女性の生き様が、奥ゆかしくもあり、いつまでも心に沁みてくる。誰かをここまで慕い続けること。想い続けること。そして、思い出深い品があることに、羨ましい気持ちになってくる。果たしてわたしには、それほど思い入れのあるものがあるだろうか、と。

4480804072とりつくしま
東 直子
筑摩書房 2007-05-07

by G-Tools

 ≪東直子の本に関する過去記事≫
 ・『薬屋のタバサ』(2009-06-05)


人気ブログランキングへ
本ブログ 書評・レビュー←宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.06.27

BとIとRとD

20090627_027 幼い頃の世界は、小さいながらにとてつもなく無限に広がっているように感じられて、ささやかなことにいちいち驚いては歓喜し、未知なる不思議にわくわくどきどきしていたような気がする。無限の扉をあけてみれば、そこはもはや別世界。大人になってからは感じることのできないものたちが、いっぱいごろごろしているのだった。酒井駒子著『BとIとRとD』(白泉社)には、幼い女の子の視点で、そのまなざしにうつるもの、心に生まれるものたちが描かれている。8編のショートストーリーが綴るのは、やわらかな夢か。はたまた女の子のリアルな現実か。その夢と現実の狭間にある不安とぬくもりとが、手に取るようにつぶさに感じられる。そして、愛らしい女の子の画が何とも言えず胸にしみる。

 「昼間の蒸気機関車」では夢の中の出来事を語り、「図書館」では大人に混じって小さな女の子が独特な方法で本を読む。「お友達」では□(しかく)ちゃんなる女の子が登場して、乳母車を押す。「12月」でも、この□ちゃんが主人公。雪を一心に見つめる□ちゃんが印象的。「幼稚園」では一人で幼稚園に行けるようになった□ちゃんが、一番乗りに幼稚園に登園する姿が描かれる。「指しゃぶり」ではどうしても指しゃぶりをやめることができない□ちゃんのことが描かれている。お母さんの工夫も虚しく、□ちゃんに根負けしてしまうところが微笑ましい。「カミナリ」では幼稚園で□ちゃん独自のカミナリについての講釈が聞ける。「スイレン」では池のスイレンがどうしても欲しい□ちゃんの健気さが可愛らしい。

 中でも、わたしが印象に残っているのは、「図書館」というショートストーリー。大人に混じって本棚を眺める小さな2歳か3歳の女の子が、“シィッ”と人差し指を立てて、見えない誰かに絵本を読んであげるお話だ。しまいには、歌まで歌ってしまうから可愛らしい。静かな図書館で女の子の声は調子よく響き、さぞや図書館はほっこりとした雰囲気に包まれたことだろう。また「カミナリ」もいい。□ちゃんがカミナリは畑ではリンゴにおちると言い張るところが何とも可愛らしいのだ。“あのね、リンゴは小さいから、小さい小さいカミナリがおちるの……”なんて言われたら、ああ、そうだね。きっとそうかもしれないねなんて、言ってしまいそうだ。幼いなりに、いや、幼いからこそ、その発想は面白い。

 また、何といっても、□ちゃんというネーミングが酒井駒子さんらしくて素敵だ。タイトルになっているBとIとRとDにちなんで、どの画にも鳥が登場していることも見逃せない。蒸気機関車を見つめる女の子の頭上に、本を読む女の子の傍に、乳母車を引く□ちゃんの傍にだって、ちゃんと鳥はひそやかにいる。そっと見守るように。主張し過ぎないくらいのさり気なさで。そうして、短い文章にぎゅっと濃縮された小さな女の子の世界は、想像力に満ち溢れて、どこまでも無限に広がっていると感じさせてくれる。黒い色を多用した画は、どこかノスタルジックでもあり、小さな女の子という人物に深みや奥行きを持たせているようにも感じられる。とにもかくにも愛おしい本。この言葉に尽きるだろう。

4592761359BとIとRとD
酒井 駒子
白泉社 2009-06

by G-Tools

人気ブログランキングへ
本ブログ 書評・レビュー←宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.06.25

古都

20090624_034 四季の移ろいと共に紡がれる物語は、何とも味わい深いものがある。京都という土地を全く知らないわたしにとっては、そこで行われる四季折々の行事ひとつひとつが奥ゆかしいぬくもりを持って、魅力的なものとして伝わってきた。そして、そうした四季折々の行事に彩りを添える物語が、また美しくも複雑な心理を描き出しているようで興味深かった。川端康成著『古都』(新潮文庫)は、京都の呉服問屋の家の前に捨てられ、大切な一人娘として育てられてきた千重子が、偶然自分と瓜二つの村の娘・苗子と出会う物語だ。その娘は、どうやら生き別れとなった千重子の姉妹らしい。互いに惹かれ合いながらも、身分の異なる育ちを20年間してきたために、一緒になれない姉妹。それが何とももどかしい。

 物語は淡々と進み、千重子の自分が捨て子である、という発言以外は、京都の四季の移り変わりに目を奪われる。けれど、千重子が双子の姉妹らしき苗子と出会ってから、読み手はその動向に目を奪われはじめることだろう。それまでの千重子は、自分が捨て子であるという引け目から、両親(育ての親)に対しての感謝の念が溢れんばかりで、何でも両親の言うとおりにしてきたし、今後もそのつもりで生きてきたのだった。けれど、苗子と出会ってからは、彼女に会いたい思いが強く出てきて、そのような願望を持つ罪悪感と葛藤している。貧しい生活を強いられている苗子。けれど、苗子だったかもしれない自分を思うと、感情は複雑に絡み合い交錯する。実に、奥ゆかしい感情でもある。

 一方、苗子のほうはというと、やはり千重子との身分の違いを気にしている。千重子のことを“お嬢さん”と呼ぶほどであるから、よほど自分の身の上を恥じていたのかもしれない。千重子のことを思えば思うほどに、千重子に迷惑にならないように会うこともためらうほどである。山奥の村で、ひそやかに千重子を思い続けるばかりだ。その決意は固く、村に会いに行くのはもっぱら千重子で、千重子の家にはなかなか来ようとしない苗子。20年という月日は、とてつもなく長いものであったと感じずにいられない。けれど、同時に出会った先から惹かれ合うほどに二人は強く結ばれていたと考えれば、月日など本当は関係ないのかもしれない。きっと苗子の中の感情も複雑だったに違いない。

 双子の姉妹のそれぞれの生い立ち、再会、姉妹の絆、ある一人の男をめぐる姉妹の葛藤…物語の要素は一見波乱を呼びそうにも思えるけれど、あくまでも淡々と四季折々の描写と共に展開する。あくまでも家族や姉妹同士の思いやりや慈しみが物語の軸としてあるような気がするのだ。そうして、相手を思いやる気持ちが、何が最良の選択なのかを見出すのである。物語世界は、徹底して上品な奥ゆかしさの中にあって、わたしたちが現在過ごす時間とは異なる流れすら感じる。京都という土地がそうさせたのか。それとも、時代がそうさせたのか。京都を知らないわたしにはわからない。ただわかるのは、互いを思い合う姉妹が、それぞれの環境の中で懸命に生きてゆくであろうということくらいだ。

4101001219古都 (新潮文庫)
川端 康成
新潮社 1968-08

by G-Tools

人気ブログランキングへ
本ブログ 書評・レビュー←宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.06.23

トロムソコラージュ

20090617_026 魂のある言葉たち。そんなフレーズがよく似合う。限りある言葉の限界ぎりぎりまでたどって、するりと吐き出すように語り出す物語性のある独特の長編詩は、自由自在に変化する。ときにはジャズのアドリブのように。ときにはユーモア溢れるルポタージュ風に。ときには場面がめまぐるしく変化するひとつの映画のように。谷川俊太郎著『トロムソコラージュ』(新潮社)は、そんな一冊である。詩が物語と出会うとき、化学反応のように広がってゆく世界は、死生という重たいテーマを扱っていながらも、軽やかな明るさがある。死というものを見つめる先にあるものは、決して暗いものばかりじゃないことをそっと教えてくれているかのように。魂ある言葉たちはわたしたち読み手に語りかける。

 ノルウェーのトロムソ。ここで書かれたという表題作の「トロムソコラージュ」。“私は立ち止まらないよ”という印象的なフレーズが繰り返し出てくる詩である。さまざまな思いがコラージュのように混ざり合い、わいてくる。「問う男」では、いきなり見知らぬ男が部屋に入ってくるところから始まる不思議な詩だ。問いかけることでしか言葉を発しない男。そして、それに対して動揺する語り手。そのずれたような掛け合いが面白い。そして、さっと非現実から現実に引き戻される展開がユニークである。「絵七日」は、いつのまにか過ぎてゆく日々を言葉で埋め尽くしたような詩。何が起こっても、何をしても、日は過ぎてゆく。絵を描くように紡がれた言葉たちがここにはあって、思わずはっとする。

 一番印象的だった「臨死船」。この詩は一番強く死を見つめている。いつのまにかあの世行きの船に乗っていた語り手の、臨死体験といったらよいだろうか。あの世へ行くのは意外にも大変なことのようで、三途の川も予想以上の大きさ。迷彩服の男たちが船に乗り込んできたり、上空で元人間の鳥たちが飛んでいたりする。ふと生と死の狭間でゆれる語り手は、死んだのに死んだような気がしなくて、生きていたときの延長のように死を感じている。まさにこれは臨死の実況中継である。臨場感溢れる言葉たちは、どこかひやっとするほどに死を冷静に受け止めていて、自分の死というものをかつても考えたことのある者のように感じられた。そうでなくちゃ、きっとこんなにも静かに死を見つめられない。

 そう、ここに描かれているのは、死を見つめ続けてきた者の、好奇心の塊のような感じがするのだ。死というものは一体どんなものかしら…まるで恋に恋するように、好奇心が優先されているような心地。死というものを迎えることを楽しみに待つ心地。それはきっと、歳をある程度重ねたからこその、境地だろう。魂のある言葉たち。そんな言葉が紡げるのは、とことんまで言葉と向き合ったからに違いない。限りある言葉。けれど、無限に広がりを見せる言葉。言葉の限界を知る者は、きっと言葉を慈しむことを知っている。魂ある言葉たちはわたしたち読み手に語りかけるのだった。そっと。ひそやかに。けれど、確かな手触りで。力強く。この他に「この織物」「詩人の墓」などを収録している。

4104018058トロムソコラージュ
谷川 俊太郎
新潮社 2009-05

by G-Tools

人気ブログランキングへ
本ブログ 書評・レビュー←宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009.06.20

旅するノラ猫

20090615_009 一味も二味も違った、摩訶不思議なる猫の世界。猫好きにとっては飽きることのないその未知なる世界は、さまざまに広がりを見せる。わからないからこそ想像はふくらみ、いかようにも解釈されて、わたしたちはその神秘に惹かれ続けるのだろう。これからも。この先もずっと。嵐山光三郎文、浅生ハルミン絵『旅するノラ猫』(筑摩書房)では、猫語のわかる人間が登場したかと思えば、念力で俳句を詠む猫たちが登場。集会で句会を開催したかと思えば、遠くを旅したりもする。個性豊かな猫たちと猫語のわかる人間たちとのふれあい、猫が詠む猫俳句の味わい、ノラ猫の悲しい運命というもの…などなどが丁寧に描かれてゆく。そこには猫への愛情だけでなく、著者の生きる姿勢のようなものも伺える。

 物語の中心はノラ猫のノラ。推定15歳。離れ離れになってしまった子猫を探して旅に出たノラは、飼い猫からノラ猫にならざるを得なくなってしまった。たどり着いた先は、アラシさんの家。自分の棲家とアラシさんの家とを行き来して生活している。アソウさんの家のトーちゃんという飼い猫の友だちもいて、ひそやかに俳句を詠み合う二匹。猫は薄情だというけれど、このノラは愛情がめっぽう強い。自分の子猫たちを探して長い旅に出ることになるのだ。ノラが出会う人間たちは不思議と猫語がわかる人たちばかり。猫の食事と言えど、生唾ものの料理が並ぶのが可笑しい。そうか、猫たちはこういうものを求めているのか…なんて、感心してみたりするのだ。猫の世界は嗚呼旨し、楽し、である。

 ノラの旅するのが俳句を詠むだけあって、あの「奥の細道」の旅。長距離トラックに乗り込んで、芭蕉ゆかりの地を旅する。我が子を探して三千里の旅でもある。と言っても、旅に出たい気持ちの方が優先しているような気がしないでもないけれど。さまざまな出会いあれば、別れあり。愉快なだけでは終わらない旅なのだった。楽しさも嬉しさも悲しさもまるごとひっくるめた旅。そして、その気持ちを慈しむように詠まれる猫俳句の数々。ときには仲間の猫の死を悼み、ときには季節の移り変わりを感じながら、思い思いに詠んでゆく。個性豊かな俳句の数々は、物語に添えられたイラストと共に、この物語を味わい深いものにしている。猫の世界は嗚呼なんと風流なこと。愛おしいこと…なんて思う。

 このように、猫好きにとってはなんともたまらない要素のたっぷりつまったこの物語は、猫を愛する人一読の価値あり、である。読めば、猫への愛おしさは倍増すること間違いなし、でもある。猫を見つめる視点も変化するというもの。今までとは違った猫との付き合い方が、もしかしたら始まるかもしれない。そして、ふらりと旅にも出たくなるかもしれない。そう、これは一味も二味も違った、摩訶不思議なる猫の世界。猫好きにとっては飽きることのないその未知なる世界は、さまざまに広がりを見せるのである。わからないからこそ想像はふくらみ、いかようにも解釈されて、わたしたちはその神秘に惹かれ続けるのだろう。これからも。この先もずっと。猫の世界は嗚呼なんて魅力的であること。

448081664X旅するノラ猫
浅生 ハルミン
筑摩書房 2009-05

by G-Tools

人気ブログランキングへ
本ブログ 書評・レビュー←宜しければクリックお願い致します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«小さな本の数奇な運命