2012.04.15

半熟たまご 母と子の詩集

20120405_4003 母と娘、その二人の言葉が響きあって、刺激しあって、なんとも新鮮な心地よい平穏と程よい距離を感じる詩集、平岡淳子・平岡あみ著『半熟たまご 母と子の詩集』(河出書房新社)。母が子を思い、子が母を思い、母親ならではの、子どもならではの、それぞれの視点が展開され、とても面白い。添えられた写真や絵、手書き文字には二人の母と娘ならではの密な関係が感じられる。交換日記のような、対になっているような、互いに刺激を受けあいながらの短い数々の詩の中には、二人の中にあるさりげなくも確かな手触りの思いやりが感じられる。クロスステッチ風の表紙もレトロな可愛らしさでとてもあたたかな雰囲気が本から感じられる、読み手のこころをやわらかにほぐす一冊である。

 母・淳子さんのタイトルにもなっている「半熟たまご」には、“あなたを半熟たまごにゆでたいの それからさきはあなたがきめて もうしばらくわたしのもとにいてもいいし しらないせかいにおもいっきりとびだしてもいいし”(43p)と、自分なりの子育てと娘の成長と将来をこの短い詩の中で描いている。なんともやわらかく、やさしい。そんな印象が残る。そっと娘の成長を見守るあたたかさを感じる。“半熟たまご”という表現は、ある程度の年齢までは親が責任を持つけれど、その後はある程度の年齢を過ぎたら、自分で責任を持って自分で自分の生き方を選んで、逞しく生きてゆくのよ、という娘へのメッセージも伝わってくる。親になるということ、母性というものは、なんだかこの詩の短い言葉の連なりに凝縮されているように思える。

 一方、娘・あみさんの詩の感性はとても素晴らしい。たとえば「くも」では、“くもがなみになってそらをうみにしている”(44p)たとえば「さみしくなかったよ」では、“赤ちゃんのときおともだちいなかったけれどさみしくなかったよ”(62p)たとえば、「じゅぎょうさんかん」では、“ねぇマミィいっぱいごはんたべてきてね4じかんめはおなかすくからおうちではすきなときにたべられるけどがっこうはそういうことできないからね”(70p)たとえば、「ふゆ」では、“白いいきがみえるね生きてるのがわかるね”(86p)と、大人が思わずはっとするような感覚で文字を連ねる。独特の視点で考え、感じ、母を思いやり、気づいた言葉を、そのまま飾らない言葉で表現している。無垢でありながら、深みのある、絶妙な言葉のバランス感覚を持ちあわせているのだ。まっすぐ読み手のこころに届く言葉が広がっている。

 どこまでも素直な視点と思いやり、言葉のセンス。まだ曇りのない目で見る世界には、どんなふうに映るのか。もしかすると、子ども時代は誰しもあみさんのようなまなざしで世界を誰かを何かを思い、見つめていたのか。それとも、これはあみさんならではの天性のものなのか。母・淳子さんの詩も素晴らしいが、あみさんの詩にひたすら魅了される一冊である。人は成長するに従って、さまざまなことを経験する。さまざまに考える、さまざまに感じる、少しずつ汚れも知る。そして、多少なりとも歪んだ感情が芽生えたりもする。いつまでも純真無垢ではいられない。だからこそ、あみさんの言葉の素朴な美しさにはっとするのだろう。忘れていた思いを見出すのだろう。わたしは大人になってしまった……。まだまだ未熟者な我が身ながら、そんなことをはっとこの一冊を読んで気づかされたのだった。

4309014755半熟たまご―母と子の詩集
平岡 淳子 平岡 あみ
河出書房新社 2002-06

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2012.04.06

夢宮殿

20120313_4012 夢という無意識のものに対して、国民と国家を結び付けてしまうという恐ろしい悪夢のような世界を描いた、イスマイル・カダレ著、村上光彦訳『夢宮殿』(東京創元社)。物語の舞台となるのは、19世紀のオスマン・トルコらしき世界。国民の見る夢を収集する巨大な官僚機構、夢宮殿<ダビル・サライ>である。謎に包まれたそこには、全国から膨大な数の夢が収集される。集まる膨大な数の夢の報告を受け取る<受理>、それを重要性で分類する<選別>、夢に隠された意味を読み取る<解釈>、そして夢宮殿の最高機関<親夢>がある。<親夢>には、国家の存亡に関わる深い意味を持つ予兆を含む夢が選び出されてゆく。国の名門出の青年キョプリュリュ家に生まれたマルク=アレムは夢宮殿に就職し、大臣や知事を親戚に持つ家柄の力でとんとんと出世の階段を昇ってゆく。驚きと畏れに戸惑いながらも自らの仕事に没頭してゆき、やがて夢宮殿をめぐる権力の謀略に巻き込まれてゆく。

 物語が進むほどに顕わになってくるのは、国家に奉仕する巨大な夢宮殿の存在の恐ろしさと滑稽さである。夢宮殿という巨大な組織の中で働く官僚たちは、自分が組織の中でどのような役割を果たしているのかわからぬまま、知ろうとしないまま、目の前の仕事にただ追われている。名前も顔もはっきりとせず、意味のあることなのか無意味なことなのか、その基準も曖昧なまま、夢宮殿に集められた夥しい数の夢を無意味なルールで選別し、ときに恣意的に解釈してゆく。そして、それらに基づいて重要とされた夢に関わる者たちの運命を決めてしまうのである。見えない大きな権力の不気味さ、現実世界ではあり得ないような世界の物語の中に、次第に浮かび上がるテーマの重みに、ゆっくりとじわじわと呑み込まれてゆくような読後感が残る。語り口が重くない分、余計に物語の余韻があとを引く魅力的な作品である。

 『夢宮殿』というタイトルから安易に想像できる物語をいい意味でこの作品は裏切る。迷宮のような構造を持つ建物のあまりの巨大さ、そして知らぬ間にその歯車に組み込まれ、運命に呑み込まれ、地位を上りつめてゆくことの恐ろしさ。国家が個人の無意識の世界である夢にまで管理の手をのばす恐るべき世界は、特殊な設定ながらどこか現実社会とつながっているようで、それを思い始めると、夢から夢へ、そしてまた次の夢へとさまよい歩くマルク=アレムと一緒になって、この巨大組織の中に巻き込まれた心地を覚える。自分の無力さにうなだれ、押しつぶされるような虚しさ。巨大組織に翻弄されるしかない人間の運命と、掴みどころのない無意識が国家組織の枠組みの中にいつしか取り込まれてしまう恐怖と狂気、幻想の渦を象徴的に描いている。

 夢によって国民と国家を結び付けてしまうという恐ろしさ。無意識を管理される国で自由に夢見ることを奪われ、さらには自分が国家の重大事に関わっているかもしれないという恐怖は、まさに究極的な悪夢に違いない。読み始める前に想像していたタイトルから連想される幻想小説とは一味異なる物語だったが、夢中になって読んだ。物語ならではの特殊な設定も、宮殿をさまよい歩くような語り口も、夢宮殿で働く職員達の画一的で無機質な様子も、無数の廻廊が縦横に這う迷宮じみた夢宮殿の構造も魅力的だ。マルク=アレムが夢に取り組みながら袋小路の中で今にも発狂しそうになる様子、システムの一部になることに対する安楽と喪失、恐怖などを暗示しているようなくだり、不条理さを象徴するような夢宮殿の中の道案内も印象的。どうせ行き着くところは同じ。その、端的な無力感を思うとき、この世界の不条理が深く深く身にしみてくる。

4488070701夢宮殿 (創元ライブラリ)
イスマイル・カダレ 村上 光彦
東京創元社 2012-02-28

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2012.03.13

詩の樹の下で

20120313_4014 たとえば木々を思うとき、たとえば空を思うとき、人がちっぽけな小さな存在であるということを、わたしたちは痛感する。祈りが届かないような現実を知った後では、なおさらのことだ。一日が穏やかに過ぎようとしていること、ただそのことをありがたいと思う。あたりまえのことに感謝しつつ、明日以降も穏やかな日が続きますように。そう祈りながら目を閉じる。祈りがたとえ届かなくても、いっそう強く、強く祈る。祈り続ける。同時に、ときどき祈りが届かないことに虚しさを覚える。けれど、祈るほかないときもあることをどこかでわたしたちは気づいている。一人の力は小さい。だからこそ、わたしはまだどこかでまだ祈りが届くことを信じたいのだろうということも。たぶん、3月11日を迎えた後は特別に強く、強く。

 長田弘著『詩の樹の下で』(みすず書房)は、福島出身である詩人の著者の近作39篇からなるFUKUSHIMA REQUIEMという意味合いの強い散文詩集である。3・11を迎える日に読みたいと、この本が出たときに思っていた。あとがきによれば、「復興」の復の字には、死者の霊をよびかえすという意味があり、興の字にも、地霊を興すという意味があるそうだ。復興とは、まさに祈りのような言葉だったのだと、この本によって言葉の成り立ちを今更ながらに知った。故郷や絵画の中に描かれる木々たちに寄り添いながら、祈るように紡がれた言葉たちの中には、たくさんの心打つ言葉たちがある。木と人生を重ね合わせる言葉はとても深く、付箋を貼りまくって読んだけれど、わたしの中での一番の言葉は、“何も言わないこと以上に、大切なことを言う術がないときがある。「静かな木」より”という箇所だった。

 木々の静けさを思うとき、わたしたちは饒舌すぎる。ちっぽけな存在のくせに、何もわかっていないくせに、目の前で起きている感情に揺り動かされて、あれこれ語り過ぎる。ときにはじっと黙って、大切なことをゆっくりいとおしく手繰り寄せて考え、心の中で思う。そんな時間があってもいいのだ、とはっとさせられる。多くの情報が飛び交う中、何を信じ、何を感じ、何を考えるのか。その問いの答えは、人それぞれ違ってもいい。けれど、じっと黙って耐えることも、ときには必要な気がしている。自分が小さき者であることを自覚して、身の丈にあった発言をする、行動をする、それが求められているような気がしている。さまざまに木に寄り添い、この散文詩集を思うとき、自分の頭の上からはじまるという空のこともまた、わたしは思い出すだろう。空はどこまでも広いのだ。

 この『詩の樹の下で』に登場する樹の多くは、著者の幼少の記憶の中の木々である。その記憶の中の風景や木々が、美しいままいつまでもあるはずだった。記憶の中の一本一本の木に寄り添う静かで穏やかな言葉たちは、震災で生死を分けた人間一人一人をそっと包み込むあたたかさに満ちている。“死の知らせは、ふしぎな働きをする。それは悲しみでなく、むしろ、その人についての、忘れていた、わずかな些細な印象をあざやかに生きかえらせる。懐かしい誰彼の死を知ったら、街のそこここにある好きな大きな木の、一本を選んで、木に死者の名をつける。ときどき、その木の前で立ちどまる。そして、考える。あくせく一生をかけて、人は一本の木におよばない時間しか生きないのだと。「懐かしい死者の木」より”それでも深く懸命に生きたい、そんなふうに思った。

4622076659詩の樹の下で
長田 弘
みすず書房 2011-12-03

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2012.03.10

チャリング・クロス街84番地 書物を愛する人のための本

20080606_006 真心を尽くす、というその言葉の本来の意味を、あるべき姿を、ヘレーン・ハンフ編著、江藤淳訳『チャリング・クロス街84番地 書物を愛する人のための本』(中公文庫)によって、わたしは知ったような気がした。ロンドン古書専門店であるマークス社とアメリカの女性・ヘレーン・ハンフとの20年にもわたる心温まる往復書簡集である。そこにはもちろん、古書店とその顧客という関係があるのだが、それをこえた、いや、それ以上の人と人との思いやりややさしさ、お互いを気遣い合う、真心が伝わってくる。マークス社の静かな仕事に対する情熱、ヘレーン・ハンフの読書の趣味の良さなどにも、読書好きを唸らせるものを感じる。まさに書物を愛する大人のための一冊なのである。

 手紙のやりとりがはじまるのは、1949年10月から。第二次世界大戦後のロンドン、チャリング・クロス街84番地にある古書専門店マークス社宛に、アメリカのニューヨークに住む貧乏作家のヘレーン・ハンフからの手紙が届く。彼女は地元ではなかなか手に入らない英国文学作品を広告に載っていたマークス社から取り寄せようとしていたのだった。彼女のリクエストに応じたのは、買い付けを担当するベテラン店主のフランク・ドエル。彼のおかけで、アメリカで売られている本とは異なる、見事な装丁の古書が次々と彼女の元へ太平洋をこえて届けられてゆく。当時ロンドンでは食糧難が続いていることから、彼女は注文のたびに心のこもった贈り物とアメリカ人らしいユーモア溢れる手紙とを送るようになる。その彼女の人柄に、読み手は一気に心惹かれてゆく。

 フランクだけでなく、その家族やほかの店員たちへの気遣いも彼女は忘れない。二人のやりとりにとどまらず、そのほかの人たちも彼女の手紙を待ちわびるようになり、お得意様以上の人として関わっていることが読み取れる。1952年の手紙には、とうとう“ハンフ様”ではなく、“ヘレーン”という呼称に手紙の文面が変わるほど、親しい関係となる。そして彼らのやりとりは20年にも及ぶのだ。注釈はあるものの、往復書簡という形式をとっているため、手紙に書かれていること以上のことは、読み手であるわたしたちは知り得ない。けれど、余計な説明が一切ない分、それ以上の感情を読み手に想像させ、小説とは一味違った深い余韻を残してゆくような気がする。二人の人柄、本に対するお互いの思い、深い友情、国の豊かさの違いなどなど。

 第二次世界大戦を境に世界の覇権国家としての地位が逆転したイギリスとアメリカ両国の関係は、食糧難の問題だけでなく、本代を支払う際のドルとポンドの力関係にも及び、20年もの長い交流の中で、刻々と時代が変化してゆく様も感じ取れる。二人が好対照な様子も伺えるのも面白い。ヘレーンの飾らないユーモアまじりの文面に対して、フランクはイギリス人らしい控えめさで語りかける。また、ヘレーンの注文する名著は、そのまま読書案内としても楽しめるのだ。二人は会いたいと切望しながらも、渡英資金をふいにしてしまうことが次々起こる。それがなんとももどかしい。今の時代とは異なる距離や時間、読書感覚というものを呼び覚ましてくれるような真心溢れる往復書簡である。なお、本書は1986年には映画化もされている。

4122011639チャリング・クロス街84番地―書物を愛する人のための本 (中公文庫)
ヘレーン・ハンフ
中央公論社 1984-10

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B002MTS446チャーリング・クロス街84番地 [DVD]
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2009-11-04

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2012.03.07

短くて恐ろしいフィルの時代

20090429_001jpg_effected 突拍子もなくもユーモラスで奇妙な物語ながら、痛烈なまでに面白く、ちくりと胸を刺し、その恐ろしさに、強烈な読後感を残す、ジョージ・ソーンダーズ著、岸本佐知子訳『短くて恐ろしいフィルの時代』(角川書店)。物語はどこかとぼけたおかしさで展開するのだが、そのおかしさは、ルワンダ、ヒトラー、イラク戦争、アブグレイブ刑務所などといったものを風刺的に取り入れた寓話として読むと、笑うに笑えない。そして、読み進めるうちに、読み手のわたしたちの中にも、恐ろしい独裁者としての自分を感じてしまう。人間のエゴというもの、その象徴として描かれる独裁者は、わたしたちの中にも潜んでいるのではないかと、自分をはっと省みてしまう。独裁者とは、まだ決して過去のものではないのである。

 物語に登場する<内ホーナー国>は、一度に一人しか住めないほどのものすごく狭い国土の国。残りの6人は<外ホーナー国>の領土内の<一時滞在ゾーン>に小さくなって立ち、自分の国に住む順番を待っている。痩せてひ弱で背が低い国民であることが特徴で、こみいった数学の証明問題を互いにひそひそ相談しあって、自国に入る待ち時間をやり過ごしている。自分たちの国がいかに他国もうらやむほど素敵に小さいかを感傷たっぷりに歌う。一方<外ホーナー国>は途方もなく広い国土で、国民は大きく肥って色つやがよい。広々としたカフェの通路に脚をいっぱいに伸ばして、のうのうとコーヒーを飲む。自国を絶対最大な強国だと思い、身をひそめあっている<内ホーナー国>の人々を胸糞悪く眺め、長年それを許している自分たちの寛大さを思っているのだった。

 こんな物語設定だけでも、くすりと笑ってしまう。だが、この小さな<内ホーナー国>を取り囲む大きな<外ホーナー国>にフィルという独裁者が突然誕生するのである。そして、国境めぐって<一時滞在ゾーン>にいることに対する税金を取り立てはじめる。次々とエスカレートする迫害は、いつしか国家を巻き込み、その国家の転覆にもつながってゆく。登場人物たちは、ツナ缶やバックル、縄などのガラクタのパーツの寄せ集めのような人々。独裁者フィルの脳もときどき落ちてしまい、脳が落ちている時間が長ければ長いほど、どんどんおかしな熱弁をふるうようになり、痙攣し、やがてバッテリー切れを起こすらしい。そのほか、おつむの弱い年老いた大統領の会話にもくすりときてしまう。

 そんな物語の展開に笑っていられるのは、途中まで。もちろん、最後まで面白く読めるのだけれど、他人事のように面白く読んでいる自分自身が恐ろしくなってくる。フィルの独裁ぶりは、かつて時代に生きた独裁者の最大公約数に違いなく、もちろん恐ろしい。けれど、それを楽しく読んでいる自分はもっと恐ろしいのではないかと思うのだ。ユーモアにくすりと笑っていた自分自身を恥じ入るように、そっと“創造主”を思うとき、わたしたちの愚かさやちっぽけさを思い知る。物語の端々に、たとえば“いいよね!忠誠心”なんていう言葉に思わず笑ってしまう自分もたぶん、この物語の中ではフィルと同罪なのだ。真実の裏返しのような物語に、ぶるぶると震えつつ思う。もしやわたしも解体されたら、ツナ缶やバックル、縄なんかでできていたりして……嗚呼、なんて恐ろしい。

4047916447短くて恐ろしいフィルの時代
ジョージ・ソーンダーズ 岸本 佐知子
角川書店(角川グループパブリッシング) 2011-12-27

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2012.03.06

王国のない王女のおはなし

20110721_4009jpg_effected 上質なおとぎ話を読んだような、やわらかく甘い気持ちの読後感を味わった、アーシュラ・ジョーンズ文、サラ・ギブ絵、石井睦美訳による『王国のない王女のおはなし』(BL出版)。王国のない王女、という設定だけでも驚きの型破りのお話だけれど、彼女の持ち物はプリティという名前の子馬と、その子馬が引く荷台だけ、という点も型破り。ポストに入らないようなやっかいな荷物を運んで、少しばかりのお金を稼いで、どこかにあるはずの自分の王国をさがして旅している王女のお話である。周囲も王国がなくても礼儀正しい彼女を“プリンセス”として認めてはいるのだが、決して最高のもてなしをするのではなく、必ず二番目に上等なもので歓迎する。ちょっと見下された王女のお話なのである。

 この王女プリンセスは、自分の欲しい物を手に入れるために、積極的に行動しているところがとても共感が持てる。他力本願の夢物語とは違うのである。働いて、頭を使って、自分の願いを叶えようと努力を惜しまない。現代を生きるプリンセスのお手本のような、そして、それはプリンセスではないわたしたちにも通ずる何かを思わせてくれる。たとえ、どれほどまでに見下され、失礼に扱われようとも、自分の目標や夢を見失わずにまっすぐ前を見つめている姿は、真のプリンセスと言うべきかもしれない。物語の展開は思わぬところに行き着くけれど、ありきたりではない結末がなんとも幸福そうなところは、やはり安心のハッピーエンドで、ほっと安堵する。

 繊細で美しいサラ・ギブの絵は色鮮やかなページと、シルエットのみで描く影絵のようなページとで書き分けられている。とりわけ、シルエットのみの絵での効果的なピンク色や赤色の使い方が素晴らしく美しく、むしろシルエットだけのほうがより人物の内面を描き出しているようでもあり、そっと物語に寄り添う。甘い色使いなので、女性好みの絵本なのだが、決して甘すぎるということはない。物語自体が古典的なシンデレラストーリーとは違っている点もとてもよいのだが、訳文の丁寧な言葉遣いも、どこか品があってとても心地よいのが印象的である。王女プリンセスの気品と穏やかさが絵本全体から漂ってくるようでもあり、読んでいてとても幸福な気持ちに浸れる。

 物質的な豊かさを求めがちな現代社会や、裕福さを強調するかつてのシンデレラストーリーとは一味もふた味も違う結末が、とてもいい。人と運命的に出会うこと、そして心が豊かであること、それらの尊さを諭してくれるような、そんな一冊なのだ。既存の価値観にとらわれない、新しいプリンセスのかたちがここには描かれている。可愛らしい表紙に誘われるようにして手に取った絵本だったのだが、思わぬところで本当の意味での幸福を教えられたような気もした。ここかしこ、いたるところに、わたしたちの幸福はあるのだということ。そして、それは思わぬところに転がっているということ。それに気づくことのできる者だけが、きっと本物の幸福を手にするのかもしれない。

4776404893王国のない王女のおはなし
アーシュラ ジョーンズ サラ ギブ
BL出版 2011-10

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2012.03.05

怪物はささやく

20110721_4006jpg_effected 物語の力強さと可能性を信じたくなる本と出会った。一人の少年の喪失と孤独、そして救いの中に寄り添ううちに、物語の奥の奥に秘められた、書き手の熱き思いを感じたような気がしたのだ。パトリック・ネス著、シヴォーン・ダウド原案、池田真紀子訳『怪物はささやく』(あすなろ書房)は、早世した作家シヴォーン・ダウドの遺した原案を、パトリック・ネスが作品化したもの。異なる持ち味の作家の組み合わせとイラストレーションを手がけた、ジム・ケイの力強いタッチのモノクロの画も加わって、見事な化学反応を起こしている一冊である。物語が思う存分に暴れ、蠢き、油断ならない確かな存在として、こうして本というかたちをしている。それは、どんな奇跡よりもフィクションでありながらも、本物の真実として、ここにあるようにすら思えるほどだ。

 物語の主人公の少年・コナーは13歳。死期が近い母親を持ち、周囲からそのことが原因で変に特別な存在として見られてしまい、いじめの対象にもなっており、孤立している。父親は再婚相手とアメリカで暮らし、別に家族を持っている。祖母がいるが、あまりコナーとはよい関係とはいえない。ある夜、そんな孤独なコナーのもとに、母親と暮らす家から見えるイチイの木の姿をした怪物が現れる。“わたしが三つの物語を語り終えたら、今度はおまえが四つめの物語をわたしに話すのだ”と。そして、それは真実の物語でなければならないという。不思議と怪物をあまり恐ろしく思わなかったコナー。なぜならコナーは、もっと恐ろしい怪物を知っていたから。やがて、怪物は決まって深夜0時7分ぴったりにやってくるようになる。

 何のために怪物はコナーのもとへやってくるのか、そしてコナーに何を語らせようというのか。どこまでが夢で、どこまでが現実なのか。その狭間でコナーは、一人もがきあがきながら、真実の物語へと少しずつ立ち向かってゆく。恐怖と戦うためにさらなる恐怖と戦うような、そんな激しさを秘めている、つらく厳しい日々と向き合わなくてはならなくなる。物語はヤングアダルト向けのファンタジーのかたちをしていながらも、深く心の奥に響く言葉と感情のうねりを感じる。読み手は、誰もが直面する、生きてゆくつらさを思い知らされる。理不尽で矛盾に満ちたこの世界に、それでも生きる、生きてゆく、そんな本当の意味を問いかけるような、奥深き物語世界なのである。

 少年の喪失と孤独、そして救いの物語は、死と生とをつなぐ物語でもある。普段は目をそらしがちなわたしたちの身近にある問題でもあるのだ。死の影に怯える少年の孤独と恐怖、痛み……それらは、子どもでなくとも感じる当たり前の感情であり、大切な人を失うときに誰もが経験しなくてはならないことである。誰かを失いたくないという気持ち、それと同時に、その人が苦しんでいる姿をこれ以上見ていたくないという気持ちも、看取る側としてはある。そうして、目の前に置かれた現実と自分の中にある認めたくない思いとの間で葛藤する。矛盾した二つの気持ちでのゆらぎが、この物語にはしっかりと描かれていて、はっとさせられるのである。“物語はこの世の何よりも凶暴な生き物だ”という怪物の言葉は、まさに真実を意味しているように思うのだ。

4751522221怪物はささやく
パトリック ネス シヴォーン ダウド Patrick Ness
あすなろ書房 2011-11-07

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2012.02.29

灯台へ/サルガッソーの広い海

20110721_5012 濃密な時間が流れてゆく。意識の奥底を。そのまた奥の奥にある意識の底を。そっといつまでもたゆたうようになでられてゆく。ささやかながら幸福を感じる物語とやりきれない悲しみに満ちた物語と。間逆の物語でありながら、2つの物語は寄り添うようにして一冊の本としてここにある。なんとも心地よい感触で。ああ、このまま浸っていたい。浸っていたいけれど、その先を知りたい。物語の行く先を、その先を知りたい。自分の中の葛藤とページをめくるほどに格闘することになるとは思いも知らずに、わたしは物語たちに踏み込んでしまった。そんなふうに感じた、池澤夏樹個人編集による世界文学全集のヴァージニア・ウルフ著、鴻巣友季子訳『灯台へ』、ジーン・リース著、小沢瑞穂訳『サルガッソーの広い海』(河出書房新社)という2作品。

 ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』。ここにはあらすじらしいあらすじはあまりない。ひとつの家族があり、それに関わる人たちがいて、灯台へ行こうと計画する。けれど、その計画はなかなか実現しないまま、時だけは確実に過ぎてゆく。小さな幸福を描く第一部、あっけないほどの驚きが待ち受けている第二部、ようやくたどりつく灯台の第三部。読みながら、ただただ眩暈を覚えるほどゆらゆらとする意識の奥底を漂うような流れが、なんとも心地よい。人の心の中というものの面白さを味わいながら、意識の奥深さを思わせてくれる。小説でありながら、絵画のような美しさもある文体なのだ。これまでウルフ作品をあまり読んでこなかったことが悔やまれるほど、一気に物語に魅せられていた。

 読みながら、第一部でメインの登場人物であるラムジー夫人の存在感、あるいは不在の存在感に圧倒される。あっけないほどに描かれるラムジー夫人の不在は、物語の中でとても多くを占めていると思う。彼女のいた時間、彼女のいない時間、いない人を思えば思うほどに、その存在感は増してゆく。幾重にも折り重なる濃密な時間が流れて、ただただ圧倒され、読み手の心に奥深く分け入ってくる。どうしてもラムジー夫人の存在感は色濃く残るが、実は脇役と思われるリリーが重要人物なのかもしれなかった、そうはっと気づくのは最後のページに至ってからである。満ち足りた読後感の読み心地や、最後に光を見出すところもすばらしく、物語によい流れを生み出していると思う。

 さて、ジーン・リースの『サルガッソーの広い海』。名作として読み継がれている『ジェイン・エア』の異聞ながら、この物語だけで完成された物語として描かれていると思う。わたしは『ジェイン・エア』を読んでいないので、そう思うのかもしれないけれど、植民地生まれと差別され、貧困と暴力に苦しみ、故郷が人生に暗い影を落とすことの苦しさが重たくのしかかる物語にもかかわらず、とても夢中になって一気に読んだ。ある種の人の狂気というものを思うとき、誰もがそれを自分の中に見つけるときの悲しさを思うと、やりきれない。そして、それを秘めた自分の中に流れている血の恐ろしさに対しても、やりきれない。けれど、物語を最後まで読み終えて思うのは、この物語の時代ほど、今の世の中には偏見や差別というものがないと、信じたいということだ。強く、強く。

4309709532灯台へ/サルガッソーの広い海 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-1)
ヴァージニア・ウルフ ジーン・リース 鴻巣 友季子
河出書房新社 2009-01-17

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2012.02.24

うきわねこ

20110309_003jpg_effected ふわふわとしたやわらかさのあるタッチで、きょとんとしたあどけない表情で大きなうきわを手にしている小さな猫のパステル画の表紙に、猫好きならずとも多くの人が強く惹きつけられる、蜂飼耳・文、牧野千穂・絵による『うきわねこ』(ブロンズ新社)。しかも物語はただの猫のお話ではないのである。猫の名は「えびお」。猫なのに「えびお」。そして、猫なのに猫としては描かれていない。猫の姿をしているけれど、一人の男の子として描かれている一冊だ。満月の夜のおじいちゃんとえびおの不思議な冒険を、臨場感溢れる丁寧なタッチのパステル画と独特の鮮やかな言葉遣いの文章とで楽しませてくれる。とても素敵な世界へと読み手を誘ってくれる絵本である。

 ある日、えびおの元におじいちゃんから誕生日プレゼントが届く。開けてみると、赤と白の縞模様のうきわである。えびおの住む街には海も川もプールもない。どうしてうきわなのだろうと、えびおもえびおの両親も不思議がる。けれど、プレゼントのうきわにはそっと手紙が添えられていた。えびおはとっさに手紙を取り出して、こっそり一人で読む。“とくべつなうきわです。つぎのまんげつのよるをたのしみにしていてください”と、おじいちゃんの言葉がある。そして待ちに待った満月の夜、えびおはうきわをふくらませてベランダへ。不思議なことに、体がふわりと浮かび、月に引き寄せられるように空に向かって飛ぶことができたのだった。

 すると、やはりえびおと同じようにうきわにつかまったおじいちゃんが、満月の前で待っていた。そしてふたりは海へ行く。えびおにとっては、はじめての海である。そうして不思議な特別な忘れられない体験をする。海で釣りをする場面では、釣った大きな魚を貪るように食べるさまだけは、リアルな猫らしさが漂う。いや、面白いことに野生の猫そのものなのだ。ああ、やはり猫だったのだ……読み手はどこかそのことにほっとする。そして、澄ました顔でおむすびなんかを食べていたえびおにも、そのえびおという名前にも、これまで男の子としてしか描かれていなかった部分も含めて、猫の姿をしたえびおとおじいちゃんを、特別な“うきわねこ”として認識するようになる。

 おじいちゃんと孫。そのふたりだけの秘密の出来事を描いたこの物語を読み終えて、この旅はとてもわくわく感に満ち溢れた特別な夢物語だけれど、どこか悲しさも含んでいるようにわたしには読み取れた。この出来事は、えびおにとってもおじいちゃんにとっても、かけがえのない思い出となるだろう。でも、おじいちゃんはもしかすると、この夢のような体験をのこして、去りゆく人なのではないかと思うこともできる。たとえばどこか遠くへと旅立ってしまう前のふたりの時間なのかもしれない、と。おじいちゃんは孫であるえびおに大事なバトンを渡す、先にこの世を去る人なのだ。語られない部分に思いをさまざまにめぐらせて、読み手がいろいろに解釈できる、とても奥行きある物語である。

4893095234うきわねこ
蜂飼 耳 牧野 千穂
ブロンズ新社 2011-07

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2012.02.23

いいなずけ

20100828_003jpg_effected 生きてゆく上での一歩踏み出すということの困難さは、誰もが一度ならず二度も三度も感じることだろう。何かを踏み出す勇気を奮い立たせるのは並大抵のことではない。今を生きる時代において、女性が社会で働くということは当然の権利としてそこにある。まだまだ女性の活躍する場は少ないかもしれないが、多くの女性が教育を受ける権利を与えられて、勉学に勤しみ、やがて働く機会を与えられるようになる。けれどかつて、そうでない時代があったこともわたしたちは知っている。アントン・P.チェーホフ作、ラリーサ・ゼネーヴィチ絵、児島宏子訳『いいなずけ』(未知谷)に描かれる時代は、まさにその時代の物語である。女性が学ぶこと、働くこと、自由に夢見ることすらできなかった時代に、一歩を踏み出そうとする、チェーホフ作品としては大胆な女性の物語である。

 16歳の頃から結婚することだけを恋焦がれるように夢見ていたロシアの地主の娘ナージャには、周囲から評価の高い許婚のアンドレイがいる。けれど、23歳となったナージャの前に芸術家の青年サーシャが現れ、新しい刺激を受ける。本当に結婚してしまっていいのか、このままの暮らしでいいのか……と繰り返し言われるのだ。これまで疑問など何も感じたことのなかったナージャだったが、繰り返しサーシャに言われ続けるたびに自分自身を、周囲を、見つめ直すことになる。そしてこれまで彼女を取り巻いてきた幸福というものが、見せかけのようにすら思えてくるのだ。そうして、マリッジブルーなのか、サーシャの囁きのせいなのか、ナージャは何不自由ない地主暮らしと訣別し、自立を目指しペテルブルクへと旅立つことになるのだった。

 あらすじだけを追ってゆくと、今の時代にもよくありがちなマリッジブルーの物語にも思えないこともない。けれど、そこはやはりチェーホフの作品、ひとひねりあって読ませてくれる。物語はナージャとサーシャとの関係の立場の逆転を用意していたりもする。ナージャが一歩踏み出すきっかけを懸命に与えてくれるサーシャが、なぜこんなにも彼女を今の暮らしから一歩踏み出させたかったのかということが後半になって明らかになってゆく、そして……。という仕掛けもあるのだ。彼がどうしても彼女を踏み出させたかったことを思うと、胸の奥がじんと熱いもので込み上げてくるほどに。まだ女性が新しい時代を担う道が平坦ではなかった時代背景を思うと、さらに込み上げるものがある。

 人は皆、今ある生活を変えることは、とても難しい。このままでいいのか、今のままでいいのか、その疑問を感じつつも、なかなか前へ一歩は踏み出せない。生きてゆく上での一歩踏み出すということの困難さは、誰もが一度ならず二度も三度も感じることに、今も昔も変わることはない。何かを踏み出す勇気を奮い立たせるのは、並大抵のことではないのだ。物語の中で、ナージャが少しずつ何かを見出し、淡い恋心のようなものを覚える様子、そして、やがて一人の自立した女性へと向かう逞しい姿には、決して古びない今を生きるわたしたちにも通ずる何かを感じてしまう。今を、これからを、どうしたいのか、どう生きたいのか、どんな幸福を求めているのか。それをチェーホフは読み手に問いかけてくるのだ。

4896421922いいなずけ (チェーホフ・コレクション)
アントン・P. チェーホフ ラリーサ ゼネーヴィチ
未知谷 2011-12

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