2010.12.26

ムントゥリャサ通りで

20101114_55014 翻弄されて、ぐるぐるぐると混乱するわたしがいる。翻弄されて、じりじりじりと心が急くわたしがいる。物語のその先を、その先の続きを、そう思うそばから物語はどんどんわたしの要求からいやいやをするように、じらすように逸れてゆく。謎めきは謎めきのまま、最後の最後まで物語の根底にあり続け、ぐいぐいとわたしの気持ちを引きつけて離さない。散りばめられたいくつもの神秘にゆらりゆらりとゆれながら、どっぷりと物語に呑み込まれてゆく。どこまでが真実の語りなのか、どこまでが信じるすべなのか、その深みに戸惑いながら、ミルチャ・エリアーデ著、直野敦訳『ムントゥリャサ通りで』(法政大学出版局)という物語にわたしはとてつもなく魅了されていた。こうして久しぶりに言葉を連ねたくなるくらいに、ひどく、強く。ひどく、強く。

 一人の老人がある男を訪ねる。老人は元ムントゥリャサ小学校の校長ファルマで、ファルマが訪ねた男の名は教え子であるはずのボルザ。だがボルザはムントゥリャサ小学校には通ったことがないと説明する。次の日、ファルマは保安警察に叩き起こされ、取調べを受け、供述書を書くことになるのだ。そこでファルマは、かつての教え子たちや彼らにまつわる者たちの長い長い話をおもむろに語り出す。幾つものエピソードは幾重にも枝分かれし、物語の謎めきを深く深くしてゆく。ファルマの語り口は聞き手である人々の心を掴み、たちまち魅了する。だが、次から次へと話はその本筋から逸れて、聞き手や読み手であるわたしたちを翻弄し、その脳内をぐるぐると混乱させてもゆく。魅了されたが最後、ファルマの語る話の先を知りたいと心が急くのだ。

 ファルマの告げる事実はどこまで真実かわからない。わからぬまま、わたしたちは進んでゆく物語の展開のその先を、そのまた先を知りたいと強く願っている。そう渇望せずにはいられない。ファルマの語る話はときに時間をこえて、ときに空間をこえて、ときに現世から彼岸へと思いを馳せるまでに至る。ひどく神秘的な地下に暮らす者たちの世界の話も登場したり、端々には幻想的なモチーフも豊かに散りばめられたりして、実に味わい深く語られてゆく。物語全体に漂う謎めきは、最後までずっと変わらずにわからないままあり続けるゆえ、読み手の解釈はどこまでも自由だ。この物語の魅力は無限に広がっていると言っていい。小説を読むことの醍醐味がそのままかたちとなって目の前にあるとも言える。読書好きのための物語、そんなふうにも思う。

4588490249ムントゥリャサ通りで
ミルチャ エリアーデ Mircea Eliade
法政大学出版局 2003-10

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2010.06.24

ポロメリア

20100409_4022 “今”が切実に欲しいと思う。同時に、“今”なんていらない、とも思う。見えない明日に夢を抱きながら、不確かな足取りではすぐさま足元をすくわれる。はたと気づけば、今この瞬間はすぐに過去になるのに、それでも“今”は落ち着かない。“今”におさまりきらない思いが、びゅうと激しくゆれる。どうしたらいい?どうすればいい?“今”を駆け抜けて生き抜くすべを知りたい。切実に知りたい。わたしのゆくべき道を。わたしのたどり着く先を。知りたい。切実に知りたい。その先を、そのまた先を知りたい。Cocco著『ポロメリア』(幻冬舎)には、中学一年生の少女の抱える今が詰まっている。多感な年頃のきらめくような感性を紐解く、自伝的とも言える物語は、読む者の心の奥をぐらぐらゆさぶる。

 “朝一番/グランドの隅っこで/校舎の4階から飛び降りた私は/地べたに転がって、まだ生きている。/もう夏のにおいがする。/何てこった。/きれいな空だ。”印象的なはじまりは、もうそれだけで物語へとやわらかに誘う。沖縄の那覇に住む中学生になったばかりの由希子の語り口は、のびやかで軽やかだ。彼女の生い立ち、武勇伝、家族のこと、友だちのこと、コンプレックス、夢中になっているバレエのこと…などなど。二度と戻らないきらきらした日々は愛おしい記憶として、しなやかに思い出されてゆく。そして、その端々にそっと添えられるように吐き出される、十代ならではの胸のうちがせつなく、苦しく、懐かしく、ため息をつかせるのだ。ときに、はっとするほどに生々しい色をして。

 そういう中にうごめく、“今”へのゆらめくような思い。あっという間に過ぎてしまう“今”への切実なる思いだ。途方もない“いつか”までなんて待ちきれないと“今”を欲する気持ち、“今”という時間を生きるすべが知りたいと切実に乞い願う気持ち、前にも後ろにもない“今”をいらないものと思ってしまう気持ち。未来には淡い夢だってある。過去にはやさしい想い出だってある。愛されている。愛している。それなのに、“今”が苦しい。“今”の激しい感情に流されてしまう。どうしたらいい?どうすればいい?自分より年上の人たちはこの感情とどう付き合って、生き抜いたのか。そのすべを知りたい。わたしのゆくべき道を。わたしのたどり着く先を。知りたい。切実に知りたい。その先を、そのまた先を。

 通り過ぎてしまえば、あっという間に流れているはずの日々。ほんの瞬きばかりの時間かもしれない、少女から大人の入り口への足取り。不安定なゆらぎは、きっと誰もが通り過ぎるはずの、一瞬の通過点に過ぎない。その一瞬を鮮やかに切り取ることのできる未来を、“今”という瞬間には思いもしない。人は“今”を生きた結果ばかりを教える。その、生きる過程を丁寧に教えてはくれない。大人になってみればわかる、後になってみればわかる。そういう、いつかわかることの連続で日々が続いてゆく。自分で学ぶしかない生きる過程が、生涯続いてゆくのだ。どうしたらいい?どうすればいい?その問いの答えは、自らの手でつかむしかない。ゆっくりでも、どんなでも。つかむのだ。つかんでゆくのだ。

4344018354ポロメリア
Cocco
幻冬舎 2010-05

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2010.06.08

ミスター・ヴァーティゴ

20100409_4008 あなたにも、わたしにも。生まれ落ちたときに持ち得た、たくさんの才能がある。例えば、夢見ること。例えば、夢を叶えること。何も、特別な才能などはいらない。人は皆、その才能の可能性をうちに秘めている。信じる、という思いの強さがひとつの才能かもしれない。耐える、という精神の強さがひとつの才能かもしれない。我が身の才能を信じ抜く強さがあれば、天賦の才などなくともそれだけで事足りるのかもしれない。わたしにもできる、わたしにはできる…そう信じ込めたら、もう一歩は踏み出している。夢見ることに終わらない一歩を。わたしたちが持ち得た才能を生かす一歩を。その一歩を踏み出す勇気さえあれば、夢を叶えることだってできるかもしれない。あなたにも、わたしにも。

 ポール・オースター著、柴田元幸訳『ミスター・ヴァーティゴ』(新潮文庫)。山あり谷あり、転落あり浮上あり、二転も三転もある運命に翻弄されてゆくウォルトが語るその人生の一代記は、清々しいほどに逞しい。幼くして両親を亡くして小銭をせびって暮らしていた日々から、9歳でイェフーディ師匠に救われるように拾われてカンザスへ。イェフーディ師匠はウォルトに13歳までに空を飛べるようになることを約束する。ウォルトを待っていたのは、空を飛ぶための辛い修行の日々と初めて出会うあたたかな家族のような存在たちだった。始めはなかなか新しい生活を受け入れることができないウォルトだが、さまざまなものを貪欲なまでに吸収し、少しずつその一歩を踏みしめて進んでゆくのだ。

 9歳から77歳までのウォルトの人生は、“空を飛ぶ”というおとぎ話的なモチーフを備えながらも、一筋縄ではいかない波乱に満ちた物語になっている。ウォルトが少年時代を過ごす1920年代の人種差別や大恐慌、街にはびこるギャングたちの様子が物語に雰囲気を持たせているし、イェフーディ師匠がウォルトに課す試練の数々や修行の様子は、まるで本当に人は空を飛べるのかもしれない…と思わせてくれる。ウォルトが実際に空を飛べるようになり、世の中に名前が知られるようになっても、物語はそこでハッピーなエンディングを用意してはくれない。突然のスランプも過酷な運命も愛しい人々との別れも、ウォルトには待ち受けている。激動の時代の中、それでもひたすらに生きてゆかねばならない。

 何度も何度も人生の岐路に立たされながらも、さまざまに方向転換しながら生きるウォルト。彼をその端々で救ってくれるのは、イェフーディ師匠の言葉と懐かしい記憶。めまぐるしく変化したウォルトの人生の、とびきりに楽しかった日々…。やがて歳を重ねたウォルトが出会うのは、かつての自分自身を見ているような一人の少年の姿。生まれ落ちたときに持ち得た、たくさんの才能のかたまり。例えば、夢見ること。例えば、夢を叶えること。何も、特別な才能などはいらない。人は皆、その才能の可能性をうちに秘めているとはたと気づく。自分の身に起きたすべてのことは、特別であり、特別じゃない。この物語のたどりつく先も、きっとそう。あなたにも、わたしにも起こり得ることなのだ、と。


ミスター・ヴァーティゴ

  • ポールオースター
  • 新潮社
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書評

 ≪ポール・オースターの本に関する過去記事≫
 ・『わがタイプライターの物語』(2006-03-08)
 ・『幻影の書』(2009-12-03)
 ・『ガラスの街』(2010-02-25)


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2010.05.31

つやのよる

20100530_4002 愛されていたかもしれないという翳りを落として、一人の女の輪郭が少しずつぼうと浮かび上がってくる。その刹那に、その煌きに、そのゆらぎに、わたしはくらくらと眩暈をおぼえる。わたしの見知った誰かが、かつてどんなかたちであれその女と関わり合った……という、わたしの見知らぬ事実が横たわり、何とも言えぬ違和感を残してゆくのだ。容易には拭い去れないざらざらは、見知った誰かと今いるわたしの関係をほのかにゆさぶり、意識の下に眠るさまざまな感情までを呼び起こす。井上荒野著『つやのよる』(新潮社)は、病床にいてまもなく亡くなるという艶という女性をめぐる7つの物語で構成されている。第三者を通じて徐々にその存在感を大きくする艶という女は、一体どんな人物だったのか。

 艶の従兄の妻、艶の最初の夫の愛人、艶の愛人だったかもしれない男の妻、艶がストーカーしていた男の恋人、艶のために父親から捨てられた娘、艶を看取った看護師……。彼女たちの人生にはじめ、艶はいない。あまりにも唐突に、“艶”という存在が思考の中に入り込んでくる。どんな人物なのか、どんなふうに彼らは付き合っていたのか、知りたいと思いつつもそっけなく返されれば詳しくは聞けない。聞けないからこそ彼女たちはそれぞれに思い悩み、想像をたくましくする。得体の知れないわからない女ほどタチの悪いものはない。しかもその女は今まさに死にかけているというから、さらにタチが悪い。艶という女の影が落ちるほどに、よく見知った彼らはいつしか見知らぬ他人のように見えてくる。

 確かに今愛されている。その疑いようもない愛情の中にいながらも、人は100%を信じられない生き物だ。疑い出したらきりがない。小さなほころびはやがて大きな裂け目になる。それが、得体の知れない女に関することだったならなおさらのことだ。愛情であれ、憎しみであれ、何らかの執着を一度でも抱いてしまったことはなかなか消せない。人の関係性というものは相手あってのものゆえに、どちらか一方が覚えているかぎり、完全に関わりを断つこともできない。その上、艶と関係を断った後も、彼女と関わった男たちの物語は続いてゆく。そして、男たちが新たな女たちと出会えば出会うほどに物語は続いてしまうのだ。艶が死んだ後もなお、彼らの物語もわたしたちの物語も当然ながら続くのである。

 連作形式になっているこの物語。最終章だけが艶と直接的に関係のある男の物語になっていて、艶という人物像が鮮やかなまでに感じ取ることができる。それまでの物語の中で奔放に謎めいていた艶という女のイメージが、一人の女性としてどんな一生を生きたのかが最後の最後でよくわかるつくりなのだ。ダイレクトに艶自身の物語ではないにしろ、勝手に想像をふくらませてきたイメージの中の彼女が、妙なくらいに生き生きとして描かれている。確かにこの世界に艶という人物がいて、彼女と関わりあった人物たちがいて、間接的に彼女を知った女たちがいて、読み手であるわたしたちがここにいる。愛されていた、愛されていなかった……それぞれの思いを胸の中にしまって、ゆっくりそっと本を閉じる。

410473103Xつやのよる
新潮社 2010-04

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 ≪井上荒野の本に関する過去記事≫
 ・『静子の日常』(2009-08-12)
 ・『雉猫心中』(2009-03-18)
 ・『あなたの獣』(2008-12-27)
 ・『ベーコン』(2008-07-27)
 ・『切羽へ』(2008-07-10)
 ・『夜を着る』(2008-03-26)
 ・『ズームーデイズ』2007-08-12)
 ・『潤一』(2006-12-28)
 ・『誰よりも美しい妻』(2006-12-27)
 ・『不恰好な朝の馬』(2006-12-07)
 ・『ひどい感じ 父・井上光晴』(2005-10-21)
 ・『だりや荘』(2005-05-06)
 ・『ヌルイコイ』(2005-05-03)
 ・『しかたのない水』(2005-04-27)
 ・『もう切るわ』(2005-02-19)


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2010.05.05

告白

20100409_4011 内に秘めた憎悪と、密やかなたくらみと。正しさの中におさまらない感情がひたひたとしたたり落ちる。圧倒的な正しさは言うだろう、“憎しみを憎しみで返してはいけない”、“復讐は悲しみしかうまない”と。そんなことはきっと、どこかでわかっているのだ。正しさの理由など深く考えずとも、本能的にわたしたちは知っている。何が正しくて、何が間違っているのか。そして知っている。正しさがすべてではないことも。正しさの中におさまりきらない感情が、この世には溢れていることを。湊かなえ著『告白』(双葉文庫)は、教師が生徒たちへある事件についての真相を告白するかたちで始まる。よどみなく唐突に語られるそれには、内に秘めた憎悪と密やかなたくらみが隠され、静かにうごめいている。

 物語は中学校の終業式、一年生のあるクラスでのホームルームの場面から始まる。担任の女性教師の長い退職の挨拶である。“娘の愛美は事故死ではなく、このクラスの生徒に殺されたのです”という、衝撃的な告白だ。激しい憎悪をちらつかせながらも犯人である生徒をじわりじわりと特定し、恐ろしいまでに周到に追いつめてゆく。彼女は警察に事故として処理された事件の真相を知りつつも、それを警察に声高に訴えたりはしない。少年法が十三歳である生徒を守ってしまうことを考え、自らの手で彼らに復讐しようとするのだ。教師である前に一人の人間であり、母親。いくら人を教える立場にいようとも、聖職者にはなりきれなかった。殺人犯である彼らへの精一杯の復讐を彼女は決意するのである。

 “告白”というタイトルどおり、事件に関する人物たちのモノローグで構成されたこの物語。被害者の母親である女性教師、その教師の去っていった後を語る級友の女子、加害者である少年Bの家族、少年B、少年Aと、代わる代わるそれぞれの視点で事件の真相に迫ってゆく構成。語りの立場が変化することによって、それぞれの立場になって気持ちを汲み取るうち、読み手であるわたしたちは事件の全貌をつかんでゆく。当然ながらそれぞれの言い分があって、それぞれの感情がある。被害者である女性教師に心寄せずにはいられないし、加害者側である少年たちの思いを痛いほどに知ってしまうと、同情心がわき上がる。結局のところ、当事者にしかわかり得ない思いが根の部分としてあるのだろう。

 わたしたちの目の前にある、後戻りのできない出来事の数々。そこにも正しさにおさまりきらない感情が当然のことのようにして横たわる。やり場のない思い、悲しみ、憎しみ…そういった感情はごろごろとある。そういう感情の処理は難しくとも、容易には見つからない答えの先に、わたしたちは妥当なおさめ場所を見つけなくてはならない。世の中に溢れる理不尽な善悪の天秤に揺さぶられながらも、懸命に。泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだり。揺らされた感情が多ければ多いほどに、わたしたちは複雑に、そして豊かになる。そうやって“わたし”という器が出来上がってゆく。そうして“わたし”という器を飼いならしながら、日々を生き抜くすべを見つけてゆく。いや、見つけなければならない。


告白

  • 湊かなえ
  • 双葉社
  • 650円
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2010.04.18

甘い水

20100403_4008 目の前にある愛おしいものを抱きしめる。愛おしい…今、そう感じられることがすべて。今、ここにいることがすべて。過去もない。未来もない。あるのは、今、ここにある思いだけ。過ぎてしまえば、すべてのものが曖昧になる。過ぎてしまえば、本当も嘘もない。ただあるのは、今、ここに起こっていることだけ。だから、目の前にあるものを抱きしめる。目の前にある愛おしいものを、ぎゅっとぎゅっと抱きしめる。東直子著『甘い水』(リトルモア)は、長い詩のような美しい物語だ。時間軸をばらばらに、最後まで全貌のわからない奇妙な世界で展開してゆく。不思議な心地に誘われるように、するりと物語に浸り込むうちに、これまでに感じたことのない愛おしさに包まれていることに気づくのだ。

 物語のはじまりは、フランという少女が語り手。けれど、これが最後までフランの物語なのかどうかはっきりとはわからない。読み進めるうちに、フランの物語はいつしか途切れ、別の誰かの物語が語られはじめるからだ。やがて、その語りを引き継いだはずの人物も姿を消してゆく。読み手は不思議な語り口に戸惑いながら、うっすらと点と点がつながるとき、物語が響き合うのを目の当たりにする。見えない力に強いられて、あるときは記憶をなくして途方に暮れ、あるときは8人の子を産み、あるときは何人目かわからないいつわりの息子の何人目かわからないいつわりの母親になる…。断片的に語られる物語の中で、それでも失われることのないやわらかな感性が煌いて、“今”を生きようとしている。

 ひとつ、とも、それぞれ、とも言える物語の中で、たびたび記憶を奪われてもなお、懐かしく愛おしいものを手探りながら抱きしめる、その優しさ。目の前にある小さな命を、ただ“愛おしい”と思える母性。そういう感情たちが、孤独と喪失にふるえながらも懸命に根を下ろしている。意識してするのではない。ただ自然に、するりと気持ちの向くほうへ、向くほうへ。“優しさ”と思ってするのではない。“母性”と思ってするのではない。誰かに強いられてするのでもない。わたしたち一人一人に備わっている、まだ見ぬ力が導いてそうするのかもしれない。わたしのグリン、わたしのシバシ、わたしのソル、わたしのミトンさん、わたしの……物語に寄り添いながら、抱きしめたい人たちを目の前に、忘れたくないと思う。いつまでもふれていたいと思う。

 だからわたしたちは、目の前にある愛おしいものを抱きしめる。愛おしい…今、そう感じられることがすべてだと思う。今、ここにいることがすべてだと思う。もはや過去もない。未来もない。あるのは、今、ここにある思いだけなのだ。過ぎてしまえば、すべてのものが曖昧になる。過ぎてしまえば、本当も嘘もない。ただあるのは、今、ここに起こっていることだけになる。だから、目の前にあるものを抱きしめる。目の前にある愛おしいものを、ぎゅっとぎゅっと抱きしめる。ただ自然に、するりと気持ちの向くほうへ、向くほうへ。愛おしいものを抱きしめながら、目の前に広がる世界に一歩、また一歩と進んでゆけばいい。怖いものなどない。わたしはただ、愛おしいものを抱きしめていれば、それだけでいいのだ。

4898152856甘い水 (真夜中BOOKS)
リトル・モア 2010-03-08

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 ≪東直子の本に関する過去記事≫
 ・『薬屋のタバサ』(2009-06-05)
 ・『とりつくしま』(2009-06-29)
 ・『ゆずゆずり』(2009-07-02)
 ・『さようなら窓』(2009-07-25)
 ・『らいほうさんの場所』(2009-12-15)
 ・『水銀灯が消えるまで』(2010-04-05)


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2010.04.05

水銀灯が消えるまで

20100403_4003 日照りが続いた後の雨のようなぬくもりを持ったしめやかさで、しっとりと心によく馴染む物語たち。物語たちはどれもこれも摩訶不思議ながら、どこか儚げでほんのりと寂しくて、何だか物悲しくて、わたしたちの隙間に入り込んでは、あっという間に消えてしまいそうなほどおぼろげだ。今にも消えてなくなってしまいそうな夢の時間。その淡く切なく、届きそうで届かない感じ。そう長くはいられない。あまりに儚い夢のひととき。東直子著『水銀灯が消えるまで』(集英社文庫)という、さびれた郊外の遊園地「コキリコ・ピクニックランド」を舞台にした連作短編集には、そんな印象が残る。疲れた心をときほぐす力を備えた物語に寄り添えば、何とも心地よい雨上がりの空気と日だまりが待っている。

 一番はじめの「長崎くんの指」では、家出をして、することもなく、行くところもなく、さまよい歩いて寂れたコキリコ・ピクニックランドにたどり着いた女性が主人公だ。何とか住み込みでそこに働き口を見つけた主人公は、一目見て従業員である長崎くんの指を好きになる。なめらかなほの白い皮膚で、すっきりと細く、すんなりと長く、すべて適度にふくらんでいる節の几帳面さは、まさに知的で完璧な指だったのだ。そうして、逃げるようにして今までの多忙な暮らしを捨ててきた彼女の、ほんのひとときのくつろぎの時間が展開される。けれど、ささやかな幸せはそう長くは続かない。遊園地は閉園してしまうのである。だから続く短編たちは、その思い出としてどれもどこか儚く物悲しく感じられる。

 続く「バタフライガーデン」では、女を演じることの苦手な40代女性のコキリコ・ピクニックランドの従業員への淡い恋心を描く。「アマレット」では、マリアさんと観覧車の番人・森田さんの穏やかな時間が美しく儚げに描かれる。「道ばたさん」では、道ばたに倒れていた女性とのユーモア溢れる交流が印象的に描かれる。「横穴式」では、今までとは雰囲気ががらりと変わり、背筋がぞっとするような展開が待っている。「長崎くんの今」では、タイトルどおりに表題作から数年後の長崎くんが描かれている。ページをめくるほどにコキリコ・ピクニックランドという場所への愛おしさが増す。思い出を胸に朽ちてゆく時代遅れの廃園。そこにぎゅっと詰まった記憶の数々が、ひとつひとつ蘇ってくるのである。

 それぞれの人々がさまざまな事情を抱えて、たどり着いた場所。そこはどんなに寂れていようとも輝かしい楽園でもあり、足を踏み入れた途端、呑み込まれて帰れない場所でもある。人は寂しさを埋めるためにここを訪れ、思い思いにぽっかり空いた空虚感をそれぞれに満たしてゆくのだろう。また、あとがきにかえて収録されている「夕暮れのひなたの国」も印象的。幼かった頃の“おねいさん”との思い出の話である。少女の記憶に刻まれた日々は戻らずとも、決して消えることはない。ほんの少し日常から自由になりたいとき、真面目であるがゆえに日常が苦しくなってしまったとき、そんなときにもう一度読み返して、ほんのひととき夢の世界へ誘われたいと思う。どれもこれもが愛おしい物語だった。(『長崎くんの指』改題)

408746539X水銀灯が消えるまで (集英社文庫)
集英社 2010-02-19

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 ≪東直子の本に関する過去記事≫
 ・『薬屋のタバサ』(2009-06-05)
 ・『とりつくしま』(2009-06-29)
 ・『ゆずゆずり』(2009-07-02)
 ・『さようなら窓』(2009-07-25)
 ・『らいほうさんの場所』(2009-12-15)


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2010.03.20

風変りな魚たちへの挽歌

20100320_4007 生まれ育った土地、ふるさと。故郷という名のそこに根ざす思いは、複雑に絡まり合う。失望と諦めと。その先にある愛着と愛おしさ。歳を重ねて、何かを失って。そうして気づく、新たなる思い。ふとした瞬間に蘇るあの日の光景は、憎しみも悲しみもまるごとすべてを包み込むようにして、わたしたちに寄り添っている。稲葉真弓著『風変りな魚たちへの挽歌』(河出書房新社)。運河の流れる小さな街を舞台に、その街に根を下ろして暮らす人や街を出てゆこうとする人、街へ舞い戻ってくる人の人間模様を描いている。表題作のほか、「水の祭り」「青に佇つ」「帰郷」の3篇を収録。著者の故郷と思われる街は、読んでいるうちに読み手であるわたしたちの故郷と重なって、懐かしい気持ちにさせてくれる。

 表題作である「風変りな魚たちへの挽歌」は、22年間を過ごした故郷での日々を回想する女性の物語だ。友人からの手紙にふっと蘇る過去の記憶の数々。当時の彼女たちは失望と愛着のまじり合った故郷で、抑えきれない思いを抱えて、うんざりするほどの若さを持て余していた。明日のことなどわからない。一年後のことなどわかるはずもない。何も起こらない故郷での日々に物足りなさを感じながらも、自分がどうしたらよいのかわからずにいた。ただ悶々と過ごす日々が続くだけ。誰しも一度は陥る若き日の思いに、いつかの自分をついついそっと重ねてしまう。あの頃のわたしはああだった。あの頃のわたしはこうだった…そんなふうに、今となっては愛おしい過去が自然と蘇ってくるのだった。

 歳を重ねるほどに思うことは、故郷からは逃れられないということ。故郷を好きになれなくとも、故郷を捨てようとも、もはや自分自身のルーツなのだ。故郷とどんなに離れていようとも、この身から完全に切り離すことはできない。どんなに田舎特有の閉塞感や排他的な部分に嫌気がさそうとも、わたしが“いた”という証のようなものは残ってしまう。わたしたちがそれと意識しないところで。知らず知らずのうちに。心も身体もどこかで覚えている気がしてならない。たとえば見知らぬ街で懐かしい感情を覚えたとき、そこにはわたしたちの故郷が影を潜めている。無意識のうちにわたしたちの中にある故郷の記憶が、やわらかに包み込む。そうしてわたしたちの過去と今とを結びつけ、郷愁を呼ぶのだ。

 故郷に対する失望と諦めと。その先にある愛着と愛おしさ。それは、歳を重ねて、何かを失って。そうしてはじめて気づく、新たなる思いのようにも感じられる。ふとした瞬間に蘇るあの日の懐かしい光景は、憎しみも悲しみもまるごとすべてを包み込むようにして、わたしたちに寄り添っている。いつだって思い返せるところに、本当はあるのだ。手を伸ばせばその先に、目を閉じればその奥に、いつだって故郷は思い返せるところにある。ただ、わたしたちがそれと意識しないだけで。ただ、わたしたちがそれと気づかないだけで。歳を重ねて。何かを失って。ひとつ、またひとつと成長するたびに、“わたし”という存在を形作るそのルーツを色濃く染めてゆく。ひとつ、またひとつと、“わたし”を彩る。

4309015417風変りな魚たちへの挽歌
河出書房新社 2003-04

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 ≪稲葉真弓の本に関する過去記事≫
 ・『さよならのポスト』(2005-10-12)
 ・『砂の肖像』(2007-09-15)
 ・『藍の満干 色のあるファンタジー』(2009-04-02)
 ・『海松(みる)』(2009-05-27)
 ・『私がそこに還るまで』(2009-09-20)
 ・『千年の恋人たち』(2010-03-12)


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2010.03.12

千年の恋人たち

20100131_4005 じわりじわりと根下ろす悲しみや痛みを抱えながら、わたしたちは生きている。どうしたって帰らぬ人を、取り戻すことのできない思いを、胸の奥に秘めながら。それでも生き続けるためには、立ち止まらずに前を向いて歩くしかない。今を生きるわたしの属するのは、過去ではなく“今”でしかない。わたしの身に何かあっても、誰かの身に何かあっても、たぶん人は“今”を生きてゆかなくちゃならない。“今”いる場所のその先を見据えて、止まらずに生きてゆかなくちゃならない。稲葉真弓著『千年の恋人たち』(河出書房新社)。生の原理をつきつめてゆく物語は、胸の奥深くを見つめさせる。生のあるべき姿を根本から揺らして、わたしたちに“生きる”ということを問いかけている。

 唐突に、妻も子も残して失踪した男。男の残した石の塔は、その不在を絶えず思い出させた。丸十二年が経とうとも、封印したはずの思いは妻・佐和の中でいつまでも疼く。佐和にとって、過去の時間はあやふやで、人生は予測もつかない悪意に満ちていた。決定的な亀裂もなく、むしろ破綻のない夫婦だったはずなのに、いきなりばっさりと幕を下ろされたのだ。悲しみは憎しみになり、佐和をいつまでも苦しめ続けた。やがて草木染めをするようになり、工房を持つようになった佐和は、画廊のオーナーである水城と親しくなり、戸惑い葛藤しながらもその距離を縮めてゆく。そうして、少しずつゆっくりと呪縛から解き放たれるように、ひたすらに、ひたむきに、生きてゆこうとするのだった。

 生きてゆくこと。自分の身に何かあっても、誰かの身に何かあっても、たぶん人は“今”を生きてゆかなくちゃならない。“今”いる場所のその先を見据えて、止まらずに生きてゆかなくちゃならない。立ち止まらずに、前を向いて。つきつめていうなら、人と人とはどんなにかたく結びついていても、所詮他人同士にすぎないということだ。あくまでも“あなた”は“あなた”、あくまでも“わたし”は“わたし”。“あなた”と“わたし”が目指す終着点は当然のようにはじめから異なっている。一緒にいても悲しいことに、あなたはわたしを知っているようで知らないし、わたしもあなたを知っているようで少しも知らない。“あなた”と“わたし”の狭間で、わかり合えない部分が渦巻いている。

 だからお互いにそれぞれの“わからない”を抱えて、わたしたちは生きてゆく。誰かのすべてをわかろうとせずに、“わからない”ことをわからないなりに理解して。寄り添って。そうして、ほんのささやかなつながりを愛おしく抱きしめるのだ。きっと、そんなつながりを見出せた関係ほど、強く深いものはない。じわりじわりと根下ろす悲しみや痛みを抱えながら、わたしたちは生きてゆくのだ。どうしたって帰らぬ人を、取り戻すことのできない思いを、胸の奥に秘めながら。それでも生き続けるためには、立ち止まらずに前を向いて歩くしかない。わからないあなたのこと、わからないわたしのこと。たくさんの“わからない”を抱えて、今日も明日も明後日も、わたしたちは生きるのだ。

4309019579千年の恋人たち
河出書房新社 2010-01-23

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 ≪稲葉真弓の本に関する過去記事≫
 ・『さよならのポスト』(2005-10-12)
 ・『砂の肖像』(2007-09-15)
 ・『藍の満干 色のあるファンタジー』(2009-04-02)
 ・『海松(みる)』(2009-05-27)
 ・『私がそこに還るまで』(2009-09-20)


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2010.03.08

故郷のわが家

20100224_4009jpg_effected 儚く移ろいゆくものを愛おしく手繰り寄せる。手を伸ばせばすぐにでもふれられそうなくらい、近いところで疼く記憶の数々。その疼きに導かれるように、なまあたたかい記憶に浸ってみる。若かった頃のわたしも、今あるわたしも、老いゆかんとするわたしも、その境界をなくしてまどろみの中に浸り込む。あの日も昨日も今日の日も、もはや一緒くたにほっこりと心地よい。村田喜代子著『故郷のわが家』(新潮社)。親を看取って、子育てを終えて、何人かの知人を亡くして。そんな年齢になった女性を主人公に、無情に過ぎようとする年月を想いながらふと立ち止まる。ときにユーモラスに。ときに懐かしく。もう戻れないとわかっている日々に、今の想いをひそやかに添えて慈しむ。

 故郷にある生家を処分するため、久住高原に戻ってきた65歳の笑子さん。たった一人きりで家の片づけに取りかかるものの、夢かうつつか区別のつかぬ世界へふらりと入り込んでしまう。古くなった物たちを丁寧により分けるほどに、さまざまな想いが笑子さんの胸でたっぷたっぷと心地よくゆれてゆく。決して戻ることのない時間に想いを馳せて、笑子さんは愛おしい記憶に漂うように遊ぶ。兄弟たちのこと、かつて野望を抱いていた旧友たちのこと、旅先で出会った時間を持て余している同年代の男性のこと、戦時中の兵士たちのこと、人工羊水の中のヤギのことにまでその想いは続く。笑子さんの思いつく“故郷喪失”という言葉が、読み進めるほどにしんみりとじわじわ響いてくる。

 “故郷喪失”。思えば笑子さんは夢とうつつを繰り返しながら、ゆっくりゆっくり自らの手で故郷を葬ろうとしていることになる。ひとつひとつ丁寧に片づけるさま。それは、きっと今現在と過去とを少しずつ切り離す作業なのだろう。現在を生きるわたしたちは、どうあがいても過去には手が届かない。昨日にすら決して引き返すことができないのだ。一生はあまりに儚い。だからこそ尊い。決して戻らない、引き返せない時間がわたしたちを包んでいる。万物は移ろいやすいものだから。わたしたちは日々変化してゆくものだから。今目を瞑ったら、瞑った先から目の前にあったものはもう遠く手の届かないものになってしまっている。こうしている瞬間にも刻々と過去はつくられてゆく。

 物語の故郷での日々は、思えば笑子さんの独り天下だったと言える。寝たいときに寝て、起きたいときに起きる。そこらにあるものを適当に食べて、相棒の愛犬フジ子とあまりに穏やかな日々を過ごしていた。場所も時間も世の中から隔てられた高原での生活は、束の間、笑子さんに与えられた大切な別れの儀式だったのだろう。笑子さんにとって、あの日も昨日も今日の日も、もはや一緒くたになって、ほっこりと心地よい記憶になる。すべては過去になる。そうして、かすかに疼くほのかな想いはもう、明日のことを考え始めてその先にいる。まだ見ぬ明日へ、また出会う故郷へ。うつらうつらしながら、またいつか故郷を想い出すまで。気の向くままに。愛おしい、その心の赴くままに。

4104041033故郷のわが家
新潮社 2010-01-30

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 ≪村田喜代子の本に関する過去記事≫
 ・『あなたと共に逝きましょう』(2009-02-29)
 ・『ドンナ・マサヨの悪魔』(2009-06-10)


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